【作詞】稲垣千穎(ちかい)【気吹舎】

卒業式でおなじみの『蛍の光』は
もともとどこの民謡?
アイルランド

フィンランド
スコットランド(答)
アイスランド
47%

タイピング
苦労して勉学に励むことを表す「蛍雪の功」の故事で、蛍を集めてその光で勉強した人物は○○?
しゃいん(答)
車胤
「車胤聚蛍」しゃいんしゅうけい

ですが雪の明かりで書物を読み勉強した人物は○○?
そんこう(答)
孫康
「孫康映雪」そんこうえいせつ

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次の文字列を組み合わせて
四字熟語にしなさい
断簡───零墨 だんかんれいぼく「文章の断片のこと」
断章───取義 だんしょうしゅぎ「一部だけ引用し自己に都合よく解釈すること」」
断薺───画粥 だんせいかくしゅく「貧しくも勉学に励むこと」「蛍雪の功」

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江戸時代に広瀬淡窓が
豊後国へ開いた私塾は
咸宜園ですが
平田篤胤が江戸に開いた私塾は?
義宜吹園
気堂宜舎
気吹舎(答)
(いぶきのや)
引用元:気吹舎(いぶきのや) 平田篤胤の私塾 「天真楼」杉田玄白 「象先堂」伊東玄朴 「洗心洞」大塩平八郎 「古義堂」伊藤仁斎 「芝蘭堂」大槻玄沢 | 【QMA復習】わかればいいのに https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/218/

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『蛍の光』と並ぶ卒業式の定番
『あおげば尊し』の歌詞にも
「蛍」という言葉が出てくる
◯(答)「3番の歌詞」
引用元:四字熟語「断簡零墨(だんかんれいぼく)」文章の断片「断章取義(だんしょうしゅぎ)」文章の我田引水「断薺画粥(だんせいかくしゅく)」貧しくも勉学に励む「円木警枕(えんぼくけいちん)」丸木枕で眠りすぎず勉学「車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい)」「孫康映雪(そんこうえいせつ)」 | 【QMA復習】わかればいいのに https://seethefun.net/%e8%8a%b8%e8%83%bd/14020/

「オールド・ラング・サイン」(もしくは「オールド・ラング・ザイン」、Auld Lang Syne [1] )はスコットランド民謡、非公式な準国歌である。日本では「蛍の光」の原曲として知られる。

古くからスコットランドに伝わっていた歌で、現在に至るまで、特に年始、披露宴、誕生日などで歌われる。

タイトル[編集]
オールド・ラング・サイン Auld Lang Syne はスコットランド語で、英訳すると逐語訳ではold long since、意訳ではtimes gone byとなる。

日本では「久しき昔」などと訳す。

日本[編集]
「蛍の光」も参照
日本では、古くより独自性の高い訳詞が付けられ、別れの曲としてよく知られている。「蛍の光」として日本全国の卒業式などで歌われることが多い。その他、来客に退出を促す目的で店舗の閉店時間直前に、「終了を惜しむ」という理由で各種式典の終了時間直前にBGMとして流されることもある。
引用元:オールド・ラング・サイン – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3

「蛍の光」(ほたるのひかり)は、日本の唱歌である。原曲はスコットランド民謡 「オールド・ラング・サイン」であり、作詞は稲垣千頴による。

経緯[編集]
「オールド・ラング・サイン」は、ヨーロッパ中に、さらには海を越えてアメリカ大陸へも普及していった。明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するとき、稲垣千頴が作詞した今様形式の歌詞が採用され、「蛍の光」となった。

1881年(明治14年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編(小學唱歌集初編)に載せられた。
引用元:蛍の光 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%8D%E3%81%AE%E5%85%89

稲垣 千穎(いながき ちかい、1845年(弘化4年)8月 – 1913年(大正2年)2月9日)は、国学者、教育者、歌人、唱歌作詞者、教科書編集者。東京師範学校教諭として和文教育を行い、多数の和文教科書を編纂したほか、音楽取調掛として、『蛍の光』・『蝶々』2番など多数の唱歌を作詞した。通称は真二郎。
引用元:稲垣千穎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E5%8D%83%E9%A0%B4

~稲垣千穎を追って~
執筆 中西光雄氏(稲垣千穎研究者) 広報たなぐら(平成22年8月号)掲載

私は、およそ10年にわたり、この稲垣千穎という人物について調査研究をしてきました。当初は、彼の編纂(へんさん)した古典の教科書から、埼玉県士族であることくらいしかわかりませんでした。伊沢修二が晩年出版した自伝に、惜しいことに既に稲垣が亡くなってしまったと書いていることから、夭折(ようせつ)の詩人を想像していたのですが、東京師範学校の卒業生の組織「茗渓会」(めいけいかい)の雑誌を調べているうちに、稲垣が伊沢より長く、大正2年まで生きたことが分かりました。追悼記事から、葬儀の行われた東京谷中の寺を訪問し、霊園内に彼の墓石を発見したときの悦びは今も忘れません。墓前で、必ず稲垣千穎の名を、世に出すことを誓いました。その後、2002年にCD『蛍の光のすべて』(キングレコード)の解説を書いたときに、朝の番組でそれを紹介してくださった日本テレビのスタッフの方が、墓所を守っておられる稲垣の子孫の方を調べ仲介してくださり、私は鎌倉に住むその方のもとへ飛んで参りました。そこで、はじめて、稲垣千穎が川越(松井)藩の家臣であったことを知ることになったのです。

 ターゲットが明確になったので、川越市立博物館に調査に出向いたところ、現館長の大野政巳さんが大変な資料を見せてくださいました。それは、旧川越藩士の親睦団体「三芳野温知会(みよしのおんちかい)[現初雁温知会](はつかりおんちかい)」の会報の、稲垣の追悼記事でた。大枝美福(おおえだびふく)[ノーベル賞の朝永振一郎博士の母方の祖父]の書いた追悼文は、大変詳細なもので、稲垣が奥州棚倉生まれであること、大枝の父松本興雅(こうが)が彼に読書習字を教えたこと、日光の寺院へ留学したこと、さらに藩主の川越転封に伴って、川越に入り、若くして藩校長善館の教員となったこと、開明的な藩主の推挙によって京都に留学、その後、東京の平田鐵胤(かねたね)の国学塾「気吹舎(ぶきのや)」に入塾、成績優秀により塾頭に就任したこと、その後東京師範学校の教師となったことなど、重要な記事が書かれておりました。明治2年の分限帳によると、稲垣も大枝( 松本)も中小姓の家柄、いわば中級武士であったこともわかりました。稲垣も大枝も、明治になって古典・歴史・地理などの教科書を出版していますから、棚倉生まれの彼らが、我が国の教育の礎になったことは間違いないことです。

棚倉に生まれた中級武士の若者が、日光で学び、川越で教職につく。そして、京都を経て、東京に出て正当な国学を学び、師範学校の教諭となって日本の教育の礎を作ったのです。彼の生涯を俯瞰(ふかん)すれば、近代日本で百数十年歌い継がれてきた「蛍の光」が、偶然の産物ではないことがおわかりいただけるでしょう。稲垣が「蛍の光」を作詞したのは東京ですが、棚倉は「蛍の光」のふるさとと言ってよいと思うのです。いまや卒業式で歌われることが少なくなったこの歌ですが、どうか今年の大晦日NHK紅白歌合戦のフィナーレで、この曲を歌ってください。そして、作詞者としてクレジットされる稲垣千穎こそ、皆さまと同じ清らかな空気を吸い、おいしい水を飲んで育った棚倉生まれの人物であることに、誇りを感じていただきたいと思います。
引用元:棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと | 棚倉町公式ホームページ http://www.town.tanagura.fukushima.jp/page/page000469.html