菊池桃子


1988年にロックバンド
ラ・ムーを結成したアイドルは
菊池桃子である
◯(答)
86%

ラ・ムーとは、1988年に当時アイドルであった菊池桃子と、フュージョングループ“プリズム”のサポートミュージシャンとしても知られるキーボーディストの松浦義和が中心となり、結成されたバンド。アルファベットでは”RA MU”と表記される。

ラ・ムー活動開始から解散まで
1988年2月17日、菊池は赤坂プリンスホテルにおいて単独記者会見を行い「今後は新たに結成するロックグループ『ラ・ムー』のボーカルとして歌手活動を行う」と発表した[5]。会見の場で菊池は「アイドルでいることに違和感を感じていた」と転身の動機を述べ「2月24日に第一曲を発売するとともに、同日の「夜のヒットスタジオデラックス」においてバンドのメンバーを発表する」と予告した[6]。後に明らかとなったバンドの構成は2人の黒人バックコーラスを擁する7人編成で、本人達は「ロックバンド」を名乗ったが[7]、菊池のアイドル然としたボーカルはソロ時代と変わらず[8]、またサウンド的にも当時の日本ではそれほど定着していなかったR&B、ファンク等の黒人音楽色が強かった[注釈 1]。ラ・ムーの音楽についてリーダーの松浦は「アメリカのブラコンに見られるタイトなリズムに、日本人に受け入れられるナイーヴなメロディーを兼ね備えたもの」だと説明し「ロックと呼んでも歌謡曲と呼んでもよいが、どちらかと問われるならロックだ」と述べた[9]。

こうして別の意味で話題になったものの、レコードのセールスはソロ時代を超えることはできず、オリコンで4位となった「少年は天使を殺す」以降は話題とならなくなった[10]。

1989年9月、菊池はデビュー当初から菊池に関わってきた岩崎加允美の事務所パーフィットプロダクションに移籍、女優に専念することになり、ラ・ムーは事実上解散した[11]。移籍後の菊池はCMでも成功し、一度路線変更に失敗したタレントとしては異例の復活を遂げた[12]。

筋肉少女帯の楽曲(正確にはボイスコント)の『パンクでポン』の中で、ラ・ムー時代の菊池が「真のロッカー」である、と褒め称える台詞がある。
引用元:ラ・ムー (バンド) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)