歌の年「1840」シューマン


ロベルト・シューマンが数多くの
優れた歌曲を生み出したことから
自ら「歌の年」と名づけたのは
西暦何年のこと?
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1840(答)
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ローベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 – 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家[1][注釈 1]。
ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した[3][4]。 とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い[5][6]。

>作曲分野の広がり[編集]
シューマンは1839年の時点では「声楽曲は器楽曲より程度が低い。―私は声楽曲を偉大な芸術とは認めがたい」と述べており、現に作品23の『4つの夜曲』までほとんどピアノ曲ばかり作曲していた。しかし、1840年にクララとの結婚が近づくと、一転して続々と歌曲を手がけるようになる[88]。1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの優れた歌曲集を作曲した。二つの『リーダークライス』(作品24および作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)である[88]。 これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されている[注釈 18]。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるものであり、1840年は「歌曲の年」と呼ばれる[88]。 これについてシューマンは、「ほかの音楽には全く手がつかなかった。―私はナイチンゲールのように、死ぬまで歌い続けるのだ」と語っている[88][89]。
引用元:ロベルト・シューマン – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

シューマン
Schumann, Robert Alexander

[生]1810.6.8. ザクセン,ツウィッカウ
[没]1856.7.29. ボン近郊エンデニヒ
ドイツ・ロマン派の代表的作曲家の一人。法律や哲学を学び,ジャン・パウルなどの文学作品に傾倒したが,20歳のとき音楽に専心することを決意。しかし指を痛めたためピアニストを断念し,作曲と評論活動に入った。 1834年『新音楽時報』を創刊し,その論評により多くの若い作曲家を世に紹介した。 1840年クララ (→シューマン ) との結婚を機に,ピアノ以外の作曲に進み,『詩人の恋』など多数の歌曲,四つの交響曲,室内楽を手がけた。しかし,若い頃からその兆候をみせていた精神錯乱が,1850年頃からいよいよ激しくなり,1854年に精神病院に入ったまま,ついに回復することなく,1856年 46歳の若さで亡くなった。音楽と文学の新しい結びつきから生まれた標題付きピアノ作品 (→標題音楽 ) や,詩に対する深い解釈を示す美しい伴奏付き歌曲などがある。
引用元:シューマン(シューマン)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3-78234