浙江省


紹興酒の名前の由来となった
紹興市がある中国の省は
江西省である
×(答)
◯浙江省
55%


日本留学時の恩師を描いた
中国の作家・魯迅の小説は
『◯◯◯◯』?
◯の漢字をひらがなで答えなさい
ふじのせんせい(答)
『藤野先生』


魯迅が小説『藤野先生』にも描いた、魯迅の日本留学時代の恩師は藤野◯◯◯?◯の名前をひらがなで答えなさい
げんくろう(答)
厳九郎


旧称は梁州
中国八代古都の一つ
河南省の都市
北宋の首都
杭州
安陽
開封(答)
成都

連想
中国八大古都の一つ
世界遺産の西湖
南宋の都・臨安は現在のここ
浙江省の省都
杭州(答)

連想
中国八大古都の一つ
河南省の都市
竜門石窟
後漢や晋の首都
洛陽(答)

連想
中国八大古都の一つ
河南省の都市
殷墟
商王朝の都市
安陽(答)

連想
中国八大古都の一つ
二里岡遺跡
嵩山少林寺
河南省の省都
鄭州(答)

連想
中国八大古都の一つ
元代には「大都」と呼ばれる
紫禁城、頤和園
中国の首都
北京(答)
引用元:河南省「開封」北宋の首都 旧称は梁州 https://seethefun.net/%e7%a4%be%e4%bc%9a/32048/

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次の中国の省と省都の
正しい組み合わせを選びなさい
陝西省(せんせいしょう)───西安市
山西省───太原市
江西省───南昌市
引用元:中国の省と省都 「陝西省」西安市「山西省」太原市「江西省」南昌市 https://seethefun.net/%e7%a4%be%e4%bc%9a/769/
chinadist_city a
引用元: 中国省名・省都名・主要都市などの地図 | 中国まるごと百科事典

紹興市(しょうこうし)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。

概要
旧名は越州。南宋の紹興元年(1131年)、会稽・山陰方面を治める事を目的として越州に府が置かれたために元号に因んで命名された。以後、府・路名として行政区分に用いられて都市名として定着した。

日本では紹興酒の産地としてよく知られており、また近代中国の文豪魯迅の生家がある。魯迅が日本に留学した折の恩師である藤野厳九郎の出身地・福井県あわら市とは友好都市の関係を結んでいる。
引用元:紹興市 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B9%E8%88%88%E5%B8%82

ろじん【魯迅】

[1881~1936]中国の文学者・思想家。浙江(せっこう)省紹興の人。姓は周、名は樹人。字(あざな)は予才(よさい)。周作人の兄。日本に留学、帰国後、革命運動に参加したが、のち学問に没頭。1918年、魯迅の筆名で「狂人日記」を発表。以後、「阿Q正伝」など多数の小説・雑感を発表。1930年に中国左翼作家連盟に加盟。翻訳、文学史研究などにも大きな功績を残した。散文詩集「野草」、短編小説集「故事新編」など。ルー=シュン。
引用元:魯迅(ろじん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AD%AF%E8%BF%85-152841

魯迅は明治三十七年(1904)九月に仙台医学専門学校(現東北大医学部)に留学した。清国の建て直しを担って日本に派遣されたエリート留学生の一人だった。この仙台では、居心地のいい学生生活とはいえなかったようだ。そんななかで出会ったのが<掏摸と間違えられるほどの風采のあがらない>藤野巌九郎という解剖学の教授だった。小説「藤野先生」は、魯迅と古武士を思わせる先生との心の通いを軸にして一年半の仙台での暮らしを描いた。

 藤野先生はある日、魯迅にノートの提出を求める。2,3日後に返されたノートは「初めから終わりまで、すっかり朱筆で添削され、文法の誤りまでいちいち訂正してあった」。それが学年の講義が終わるまで続いた。
 しかしこの行為が日本人学生の疑惑を招くことになる。ある日、学生会幹事がノートをみたいと魯迅の下宿にやってきた。中国人がいい点をとったのは藤野先生が試験問題を漏洩したためではないかと疑ったのだ。疑いは晴れたが、魯迅の心は痛む。「中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である、点数が60点以上あるのはその人の人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない」と歯をくいしばるのである。

 さらに追いつめるような「事件」が起きる。階段教室で魯迅は日露戦争中に中国人のロシアのスパイが処刑される幻灯を見せられた。歓呼の声をあげる同級生、画面のなかでの処刑をみる中国人群衆の笑い顔が胸をえぐった。「もはや言うべき言葉がない」と書き留める。そして「およそ具弱な国民である限り体格がいくら立派でも、頑健でもせいぜい見せしめの材料と見物人になるだけだ。彼らの精神を改造することである。それに役立つには医学でなくて、文芸を挙げるべきだ」(駒田信二訳)と思うようになった。

 医学を断念、仙台を去る魯迅に、藤野先生は自分の写真を手渡した。裏には毛筆で『惜別 藤野」と書かれていた。その写真はその後、魯迅の家に掲げられた。「わたしの師の中で、彼はもっともわたしを感激させ、励ましてくれた一人なのである。私に対する教えは、小にして言えば中国のためであり、中国に新しい医学が興ることを希望してである。大にして言えば、学術のためであった」(同)

魯迅は日本で夏目漱石と森鴎外の作品に親しんだ。この作品も漱石が英国留学中の家庭教師の思い出を書いた「クレイグ先生」に相通じるところがある。異文化の中でとまどい、立ち上がっていく姿は国が異なっても変わることはない。魯迅にとって「藤野先生」は青春時代のモニュメントだった。
引用元:藤野先生 魯迅 名作の舞台 http://www.zusi.net/meisaku/fujinosen/sendai.htm

藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日 – 1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
同年9月、中国の留学生・周樹人(魯迅)が入学(ちなみにこの師弟の年齢差はわずか7歳である)。当時は日清・日露戦争の戦勝の余波で、日本社会には中国を後進国として軽んじる風潮が横溢する中、藤野は魯迅のノートに詳細な添削を加え、懇切に指導した。しかし魯迅は医学では中国を救えぬとさとり、医学を捨てて仙台を去った。その頃の二人の関係は、魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」(小説集『朝花夕拾』に収録)に詳しい。

1915年、仙台医専は東北帝国大学医学部に改組された。帝国大学の教員には帝大卒の資格が必要であったため、医学校卒の藤野は資格を満たせず、退官して郷里の福井県に戻り、三国町で開業医となった。終戦直前の1945年8月11日、往診先で倒れ死去。享年73。

人物
教授時代には、甲高い声でしゃべり、身なりに構わず警察にスリと間違えられたことが学校で評判になるなど、決して当時の直接の教え子たちに評価の高い教官ではなかった。退官後は田舎の一開業医として生涯を終えた、日本国内では無名に近かった人物である。教え子の魯迅が1926年に「藤野先生」を発表、魯迅が中国で高く評価されるにつれ、藤野の名が世に知られるようになった。現代に伝わる藤野の人物像のほぼ総ては、魯迅の描写に依存している。魯迅は作品が世に知られることで消息不明の彼と連絡が取れるようになることを期待していたようだが、結局藤野が名乗り出ることはなく、身内にも固く口止めしていたという。北京医科大学から教授として招請されたこともあったが、これも固辞した。ただ魯迅の死後、藤野の居場所を知った新聞記者が彼を取材しており、その時のインタビューが残っている。
引用元:藤野厳九郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E9%87%8E%E5%8E%B3%E4%B9%9D%E9%83%8E

ウィリアム・クレイグ(William James Craig、1843年11月6日 – 1906年12月23日)は、イギリスのウィリアム・シェイクスピアの研究家である。ロンドン留学中の夏目漱石の個人教授を務めた。夏目漱石の『永日小品』の中で「クレイグ先生」という作品がある。

アイルランドのロンドンデリー州のマコスキンで生まれた。父親は英国国教会牧師であった。1861年にダブリンのトリニティ・カレッジに入学し、1865年にBA、1870年にMAを取得した。その後4年間、トリニティ・カレッジで文学と歴史の講師を務めた[1]。

1874年にロンドンに移り、役人や軍人の資格試験のための個人教師を務め、アベリストウィスのユニバシティ・カレッジの英語教授となった。クレイグが編集して、オクスフォード大学出版から上梓されたシェークスピア全集は、1833年に作の戯曲「シンベリン」から始まり、1891年に出版された。1901年から個人教師を続けながら、友人エドワード・ダウデンの後をついで、アーデン版シェイクスピアの編集者の一人となった。個人教授を受けた人物には夏目漱石がいる。終生、独身で、ロンドンで没した。
引用元:ウィリアム・クレイグ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B0