一万田尚登、山際正道、澄田智


次の人物を、日本銀行総裁を
務めた順に選びなさい
一万田尚登
山際正道
森永貞一郎
前川春雄
澄田智
三重野康
35%


次の人物を、日本銀行総裁を
務めた順に選びなさい
松下康雄 1994-1998
速水優(まさる) 1998-2003
福井俊彦 2003-2008
白川方明(まさあき) 2008-2013


次の財界人を、日本銀行総裁に
就任した順に選びなさい
三重野康
松下康雄
速水優
引用元:松下康雄、速水優、福井俊彦、白川方明 https://seethefun.net/%e7%a4%be%e4%bc%9a/33283/

一萬田 尚登(いちまた ひさと、明治26年(1893年)8月12日 – 昭和59年(1984年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。勲等は勲一等。新字体で一万田 尚登(いちまた ひさと)とも表記される。

日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)などを歴任。

概要
日本銀行総裁としての在任期間3115日間は歴代最長である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。

太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。一萬田自身の強力な政治力を背景に、政策委員会は日本銀行の下に置かれることとなり、議長の座も日本銀行総裁が兼ねることとなった。しかし、池田勇人や山際正道らとの日本銀行法改正論議を端緒にした大蔵省の権能の増大、また日本輸出入銀行による輸出補助金の割り当て権限を背景とした通商産業省の権能の増大、などにともなって、日本銀行そのものの役割は薄まることとなった。占領行政を脱した後に大蔵大臣となった際に、次官の平田敬一郎と対立して更迭しようとしたが、省内から大反発を受けてこれを断念せざるを得ないこともあった。
引用元:一万田尚登 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B8%87%E7%94%B0%E5%B0%9A%E7%99%BB

山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 – 1975年3月16日)は第20代日本銀行総裁。大蔵次官。東京出身。

来歴・人物
東京府出身[1]。1925年東京帝国大学経済学部卒[1]。大蔵省に入り、銀行検査官、朝鮮銀行、台湾銀行各検査官[1]、銀行、秘書、調査、文書の各課長を経て[1]、銀行局長に就任する[1]。1945年、大蔵次官に就任するが、戦後、公職追放となる[2]。追放解除後は日本輸出入銀行総裁から日銀総裁に就任。当時蔵相であった大蔵省入省同期の池田勇人(のち首相)らと共に日銀法改正の焦点を巡って、日本銀行と水面下で熾烈なバトルを展開した。大蔵側は池田、下村治、日銀側は松本重雄、佐々木直副総裁らを論客としていた。池田蔵相、同総理時代の日銀総裁在任中は、大蔵省と歩調を合わせて、日銀の意向とは別に、高度経済成長下、内需拡大政策をサポートするために、公定歩合を引き下げ低金利政策路線に舵をとっていた。
引用元:山際正道 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%9A%9B%E6%AD%A3%E9%81%93

澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 – 2008年9月7日)は、群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。

1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが、前川が輸銀時代には澄田の部下であったため(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省の「ロイヤル・ロード」を極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。

日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦と円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。1985年のプラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。

澄田は金融当局の最高責任者の1人としてこの問題への対応を迫られ、プラザ合意直後は公定歩合を据え置くとともに無担保コールレートを上昇させるという短期市場金利の「高目放置」路線をとったものの[1][2]、大蔵省の要請や円高不況への懸念により、遅ればせながら翌1986年に入り金融政策の大幅な緩和へと舵を切った。1987年10月のブラック・マンデー後にはドル暴落懸念もあって、日本経済がバブル景気のただなかにあっても金融引締めへのかじ取りができず、日本経済は日経平均株価が1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭のピークをつけるまでの過熱に到ってしまった。このことに関して、澄田が日銀副総裁の頃、ある立食パーティで倒れかかったことがあって、後輩の竹内道雄らが緘口令を敷いた。総裁後半期の超低金利政策のミスは、あるいは何らかの持病の影響があったとも指摘されている[3] 。

澄田は日銀総裁を退任した後、仏投資銀行ラザール・フレール顧問に就任。その後任には日銀プロパーの三重野康が就いた。
引用元:澄田智 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E7%94%B0%E6%99%BA