橋本登美三郎


第1次池田内閣で建設大臣
「佐藤派五奉行」のひとり
佐藤内閣で内閣官房長官
よど号事件の時の運輸大臣
橋本登美三郎(答)
保利茂
松野頼三
愛知揆一
44%


佐藤政権で内閣官房長官
吉田内閣で内閣官房長官
「佐藤派五奉行」のひとり
息子の耕輔も政治家
保利茂(答)

連想
ダグラス・グラマン事件で失脚
「佐藤派五奉行」のひとり
佐藤内閣で防衛庁長官、農林大臣
息子の頼久も政治家
松野頼三(答)

連想
「佐藤派五奉行」のひとり
佐藤内閣で官房長官と外務大臣
第2次田中内閣で大蔵大臣
1973年大臣在任中に死去
愛知揆一(答)

橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 – 1990年1月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。自民党幹事長、建設大臣、運輸大臣などを務めた。

岸内閣の後の第1次池田内閣の建設大臣兼首都圏整備委員会委員長として初入閣。佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。1964年に佐藤内閣が発足し、内閣官房長官、建設大臣、党総務会長、運輸大臣を歴任。佐藤退陣を受けての角福戦争では田中派の大幹部として、総裁選挙で田中角栄を擁立、田中内閣成立をうけて、自民党幹事長に就任した。政権の大番頭として田中を支える。

運輸大臣在任中の1970年に、日本航空機がハイジャックされる、いわゆる「よど号ハイジャック事件」が発生。主管大臣として犯人側との交渉に当たる。その際、橋本は自ら人質の身代わりになることを主張するが、佐藤は現職閣僚の橋本を危険にさらすことは出来ないとして、山村新治郎運輸政務次官(旧制佐原中学の後輩でもある)が人質の身代わりを志願。最終的に、山村が人質の身代わりになった。

その後も運輸大臣として高度経済成長期の運輸行政の舵取りを取り続けるものの、在任中に国内大手航空会社の全日本空輸からの多額の収賄を受けたことで、田中とともに逮捕され、自らの政治生命に終止符を打つこととなる。1976年8月21日に、ロッキード事件の全日空ルートで、運輸大臣在任中に全日空に有利な政策を導入するなど便宜を図った謝礼として、元運輸官僚で天下り社長となった若狭得治率いる全日空幹部から500万円を受け取った容疑で、東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された。なお同社は、橋本がかつて勤務していた朝日新聞の社長が社長を務めたほか、上位株主として名を連ねるなど朝日新聞と深い関係にある。

起訴逮捕後に自民党を離党し、1980年に落選して政界から引退。地盤は額賀福志郎に引き継がれた。ロッキード事件では一審・二審で懲役2年6ヶ月執行猶予3年、追徴金500万円を受けた。上告中の1990年1月19日死去。享年89。裁判は公訴棄却となった。
引用元:橋本登美三郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%99%BB%E7%BE%8E%E4%B8%89%E9%83%8E