リビア


2011年に、1969年より続いた
カダフィ大佐による独裁政権が
崩壊した国は?
リビアをタッチ(答)
52%



リビア
Libya
引用元:リビア | 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/libya/index.html

リビア国(アラビア語: دولة ليبيا‎, Dawlat Lībyā、英語: State of Libya)、通称リビア(リービヤー、ليبيا, Lībiyā、Libya)またはは、北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。

アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。

20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、1926年からイタリアのロドルフォ・グラツィアーニによる厳しい弾圧が行われたが、特にフェザーンでの抵抗は激しく、リビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。

第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。

独立からカダフィ政権

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の国旗
詳細は「リビア王国」、「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」、および「2011年リビア内戦」を参照
1949年の国際連合の決議により、1951年にキレナイカ首長国(英語版)(キレナイカ)、トリポリタニア、フェッザーンの3州の連邦制によるリビア連合王国として独立した。キレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が国王に即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。

1969年9月1日、ナーセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)らによるクーデターにより、イドリース1世は亡命して、カダフィを事実上の元首とする共和国が成立した。

2011年、カダフィ打倒を旗印にしたリビア国民評議会とカダフィ政権側の間で内戦が勃発した。一時期はカダフィ政権側が評議会側の拠点だったベンガジ進攻寸前まで至ったが、NATO(北大西洋条約機構)などから軍事的な支援を受けた評議会軍が同年8月23日に首都トリポリを制圧。10月20日にカダフィがスルトで殺害され、42年間続いた政権は崩壊した。
引用元:リビア – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%93%E3%82%A2

1 リビア政府中心人物
シラージュ国民統一政府首相
2 内政
 1969年のクーデター以来、42年間にわたったカダフィ体制が2011年に崩壊。2012年7月、リビア史上、1952年の王政下以来初めて国政選挙が全体として大きな混乱なく実施された。制憲議会は定員200人。8月8日に国民暫定評議会(NTC)から制憲議会に権限移譲。2014年6月には代表議会選挙が実施され,制憲議会から権限委譲されるはずであったものの,委譲されなかったことで,両議会の政府が並立する事態が生じ,統一政府の樹立に向けて国連が仲介支援を開始。累次にわたる政治対話の結果,2015年12月にリビア政治合意が実現。その後,国民統一政府の上級閣僚から成るシラージュ首相を議長とする首脳評議会が,2016年1月に代表議会にリビア政治合意案及び閣僚リスト案を提出したものの,閣僚リスト案は否決され,正式な樹立に至らず。同年3月に首脳評議会がチュニジアから首都トリポリに拠点を移すことに成功したが,両議会の政府は存続し続けているため,3つの政治勢力が国内に並立する事態となった。同年8月にも首脳評議会は修正閣僚リスト案を代表議会に再提出したが,否決された。内政,治安及び経済の早期安定化のためにも,国民統一政府が法的正当性のある統一政府として樹立されることが急務であり,国連をはじめとした国際社会の支援の下での政治対話等が進展中。
引用元:リビア基礎データ | 外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/libya/data.html