「エストラーダ・ドクトリン」外国政府に対する承認は自動的になされるべき「トバール・ドクトリン」合憲的成立の国家に承認を与えるべき


1930年にメキシコ外相が表明した
「外国政府に対する承認は
その誕生の経緯に関係なく自動的に
なされるべき」という声明は?
エストラーダ・ドクトリン(答)
ハルシュタイン・ドクトリン
スティムソン・ドクトリン
ドラゴ・ドクトリン
47%

エストラーダ・ドクトリン【Estrada Doctrine】

メキシコの外相G.エストラーダが1930年9月30日に発した宣言。外国政府に対する承認は,その誕生の経緯にかかわりなく自動的になされるべきことを主張した。これよりさき1907年,エクアドルの外相C.トバールは,西半球の議会制民主主義を育てるために,革命によって生じた政府は立憲体制に復帰するまで承認すべきでないとする,いわゆるトバール・ドクトリンを発表し,アメリカはこれにならって1910年に始まるメキシコ革命の際に,15年まで不承認政策を続けた。
引用元:エストラーダ・ドクトリンとは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%80%EF%BD%A5%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3-1149339

トバール主義
トバールしゅぎ
Tobar doctrine

1907年エクアドルの外相 C.トバールが提唱した合法政府擁護の主張。新政府の成立にあたり,憲法違反および武力を用いて成立した政府の承認を拒否し,合憲的手続によって国家が再組織されたときに承認を与えるべきだとする,政府承認の立憲的正統主義。
引用元:トバール主義(トバールしゅぎ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%B8%BB%E7%BE%A9-105610

ハルシュタイン・ドクトリン
はるしゅたいんどくとりん
Hallstein Doctrine

1955年末に表明された、「ソ連を除き、東ドイツを承認する国家とは外交関係を結ばない」という旧西ドイツの外交上の原則をいう。当時の西ドイツ外務次官ハルシュタインW. Hallsteinの名をとってこのようによばれるが、実際の提唱者は当時アデナウアー首相の顧問をしていたW・グレーウェWilhelm Greweであったともいわれる。この原則は、西ドイツのみが国際法上存在する唯一のドイツ国家であり、したがって全ドイツ民族を代表し、その名の下に行動することができる唯一の主体であるとする唯一代表権の主張に基づき、57年ユーゴスラビア、63年キューバに適用された。こうしてこの原則は、一時は東ドイツの国際法的承認を妨げるうえでかなりの効果をあげたが、現実はかえってこの原則に固執すればするほど西ドイツ自らの孤立を招く結果になった。67年西ドイツはルーマニアと外交関係を樹立、また翌68年ユーゴと外交関係を再開して、事実上同原則を放棄した。[深谷満雄]
引用元:ハルシュタイン・ドクトリン(はるしゅたいんどくとりん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3-1395420

1930年から1931年までスティムソンはロンドン海軍軍縮会議の米国代表団の団長を務め、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドや日本全権若槻禮次郎などとの交渉の末、ロンドン海軍軍縮条約締結にこぎつけた。会議における若槻の「生命と名誉のごときは、これを顧みない」姿勢に感動したため、日本の要求に譲歩したとの批判を受けたが、卓越した弁護士としての技量により条約は批准された。翌年、ジュネーヴ軍縮会議の米国代表団の団長となった。
その同じ年、合衆国は日本の満州占領に対して「スティムソン・ドクトリン」を公表した。内容は日本の満州への軍事行動を非難するものであった。すなわちケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反するいかなる行動をも認めないとともに、中華民国への軍事行動によって生じた条約や中国大陸における勢力圏の変化を承認することを拒否するものであった。同時にスティムソン・ドクトリンはアメリカの中国における条約上の権利・権益を侵害するような取り決めを認めず、中国政策における「門戸開放政策」の方針を確認するものでもあった。
引用元:ヘンリー・スティムソン – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3

ドラゴ・ドクトリン【Drago Doctrine】

1902年12月29日,アルゼンチンの外相ルイス・マリア・ドラゴLuis María Drago(1859‐1921)がアメリカ合衆国大統領T.ローズベルトあての書簡の中で表明したもので,債権国が債務取立てに武力を行使することに反対した宣言。そのきっかけは,同月9日,ベネズエラの債務不履行に業を煮やしたドイツ政府が,イギリス(後にイタリアも参加)の協力を得て武力でベネズエラの港湾を封鎖し,関税収入を押収しようとしたことにあった。
引用元:ドラゴ・ドクトリンとは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%EF%BD%A5%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3-1190543