K【糸川英夫】

次の日本のロケットを
打ち上げられたのが
早い順に選びなさい
カッパロケット
ラムダロケット
ミューロケット
イプシロンロケット
32%

◯×
液体燃料ロケットと固体燃料ロケットで一般的により多くの荷物を運搬できるのは液体燃料ロケットの方である
◯(答)

文字パネル
宇宙航空研究開発機構(JAXA)と共同で、新型固体燃料ロケット「イプシロンロケット」を開発したのは◯◯◯エアロスペース?
IHI(答)

066hIRSYgY
2009年9月に1号機の打ち上げが
成功した、JAXAと三菱重工業
が開発した国産で最大の能力を
誇るロケットは?
BHOV
XTL2
H2B(答)

315RRMOlYGuVG
ヘブライ語で「彗星」という
意味がある、イスラエル
宇宙局が開発した人工衛星
打ち上げロケットは?
ヴャィトシ
シャヴィト(答)

CIMG3993
次の世界のロケットを
低軌道打ち上げ能力が
大きい順に選びなさい
プロトン 19.8t
ソユーズ 6.9t
ロコット 1848kg
ペガサス 440kg
引用元:「シャヴィト」イスラエルの打ち上げロケット ヘブライ語「彗星」 ロケット打上能力順「プロトン」「ソユーズ」「ロコット」「ペガサス」 | わかればいいのに I wish I knew http://seethefun.net/%e7%90%86%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/10634/

東京大学生産技術研究所の若い研究者たちが「ロケットをやろう」という意気に燃えて集まった経過については、すでに触れた。その時、ロケットをどのように大型化していくかについての議論があり、とりあえず、タイニー・ランス→ベビー・ランス→フライイング・ランスという順序で開発していこう、ということになった。

「ランス」とは投げ槍のことである。タイニー・ランスは後に「ペンシル」と呼ばれるようになり、ベビー・ランスは「ベビー」に、そしてフライイング・ランスは「アルファ」と改名されたのだが、これ以後、彼らはアルファ→べ一タ→カッパ→オメガと徐々に大型のロケットを作っていこうと考え、オメガ型で20kgの観測機器を100kmまで上げることを目標としていた。アルファロケットは、推薬量を3kg、推力525kg、燃焼時間1.14秒のロケットエンジンをもつ試験用のもので、ベータはこれを2段あるいは3段にして多段式の研究をするためのものとされた。

しかしIGYに間に合わせるために開発のテンポを速める必要が出てきて、アルファとベータは机上計画と一部のエンジンの地上燃焼試験だけを行って、いきなりカッパ型に進んだのである。当初べ一タからガンマとかデルタなどギリシャ文字のアルファベットの途中を省略していきなりカッパに跳んだのは、「カッパ」という言葉の歯切れの良さをかったものである。「河童」とは関係がないが、語感が大変ユーモラスで、一般からも随分と愛された。

ギリシャ文字のアルファベットをロケットの名にすることは、スムーズに決まったわけではない。初めは「ぎんが」とか「かもめ」とかの急行列車の名前が速そうだからいいとか、日本のロケットらしく「高砂」とか「紅葉狩」とかの能の曲名がいいとか、色々な意見が出た。どれも一長一短だったところへ、糸川英夫の鶴の一声でギリシャ文字に決まったらしい。カッパ(K)の後は、ラムダ(L)→ミュー(M)と進んだ。
引用元:ロケット・シリーズの名称 | 日本の宇宙開発の歴史 | ISAS http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/04/01.shtml

カッパ(ギリシャ文字のK)ロケット は、東京大学生産技術研究所と後継機関の東京大学宇宙航空研究所(後の宇宙科学研究所(ISAS))が、富士精密工業と後継法人のプリンス自動車工業、日産自動車宇宙航空事業部(現IHIエアロスペース)と共に開発した固体燃料を使用する観測ロケットである。

概要[編集]
カッパロケットは、1950年に東京大学・生産技術研究所(当時)の糸川英夫によって始まった日本のロケット開発において、初めての本格的な地球観測用ロケットである。カッパロケットによる観測は国際地球観測年(IGY)プロジェクトそのものとは独立したものだったが、IGYに合わせて日本が独自に行うことを目標にしたもので、1958年9月、K(カッパ)-6型 3号機にて高度50kmの高層物理観測を行った。

カッパロケットは1988年まで運用された。もっとも多く打ち上げられたのは K-9M型ロケットで、1961年から1988年の28年間で合計81機が打ち上げられた。
引用元:カッパロケット – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

ラムダ(Λ)ロケットとは東京大学生産技術研究所と後継機関の東京大学航空宇宙研究所(現JAXA宇宙科学研究所)が、プリンス自動車工業と後継企業の日産自動車宇宙航空事業部と共に開発した全段固体燃料の観測ロケットシリーズである。

概要[編集]
1960年に高度1,000kmの内側ヴァン・アレン帯に届く観測ロケットシリーズとして立案され、カッパロケットに続くものとして “L-計画” と名付けられた。L-3で当初の目的は達成されているが、1964年に糸川英夫によって人工衛星打ち上げロケットとしての利用の可能性が示唆された後、人工衛星打ち上げロケットとしての性能を満たす様に改良が重ねられた。1970年 L-4S 5号機において日本初の人工衛星であるおおすみの打ち上げを成功させている。また、それらと並行してミューロケットの技術試験機としても用いられた。
引用元:ラムダロケット – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%80%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

ミューロケットは、東京大学生産技術研究所と後継機関の東京大学宇宙航空研究所、文部省宇宙科学研究所(ISAS)、JAXA宇宙科学研究所(同)が、日産自動車宇宙航空事業部と後継企業のIHIエアロスペースと共に開発し、運用した人工衛星打ち上げロケットシリーズである。

概要[編集]
ミューロケットシリーズはペンシル,ベビー,カッパ,ラムダに続く日本独自の固体ロケットシリーズであり、人工衛星の打ち上げによって宇宙開発を本格的に推進する為に開発されたものである。26機の科学衛星を打ち上げ、世界の宇宙科学の発展に大いに寄与したが、2006年のM-V 7号機の打ち上げをもって引退した。

開発計画は大きく M計画 と ABSOLUTE計画 に分けられる。

Μ計画[編集]
Μ計画(ミューけいかく)とは1960年に外側ヴァン・アレン帯高度10,000km以上に達するロケットとして考案されたものである。その後、1962年に糸川英夫による「5年後にペイロード30kgの人工衛星を打ち上げるためのロケットは如何に」という設問に対する解答として10月に「人工衛星計画試案」が秋葉鐐二郎,長友信人,松尾弘毅らによって製作された。このロケットは直径1.28m,第3段及び第4段に球形のロケットモータをもつもので、これがミューロケットの仕様の叩き台となった。その後すぐに糸川英夫によって1.4m以上の直径とする案が提示されることとなるが、これはその後10年以上はこれを上回る大型化はできないだろうという予測に基づいたもので、実際にM-Vロケットが提案される1989年までの20年余りは1966年の国会報告[1]によって直径1.4mの制限を掛けられていた[2][3]。糸川英夫の案は採用され、ミューロケットは直径1.4mのロケットとして開発されることになった。

技術開発は主にL-4型ロケットやK-10型ロケットを用いて行われた。M-4Sロケットの開発においては他に実機大予備試験機としてM-1,M-3Dが用いられている。

当初計画において M-4S の後は、2,3段にTVC誘導制御装置を搭載した M-4SC、M-4SC の各段を高性能化し第1段にもTVCを搭載した M-4SH、さらに各段を大型化した M-4SS と開発を進める予定であった[4]。この後、L-4S-5に至るまでの失敗の連続や漁協問題による計画の遅延によって、上段モータの高性能化が先行して進む結果となり、1972年には3段構成でも要求性能を満たすことができると考えられるようになった。また、3段構成であれば開発中の誘導制御装置の簡素化が可能であるという点も有利に働き、計画は3段構成に変更された。M-4S以降は M-3C, M-3H, M-3S と開発が進んだ。Μ計画は M-3S をもって一応の完成をみることとなる。
引用元:ミューロケット – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

イプシロンロケット(Εロケット、英訳: Epsilon Launch Vehicle)は、宇宙航空研究開発機構 (JAXA) とIHIエアロスペースが開発した小型人工衛星打ち上げ用固体燃料ロケットで使い捨て型のローンチ・ヴィークル。日本の衛星打ち上げの自律性をになうロケットとして基幹ロケットに位置づけられる[6]。当初は次期固体ロケット(じきこたいロケット)の仮称で呼ばれていた。

概要[編集]
イプシロンロケットは、2006年(平成18年)度に廃止されたM-Vロケットの後継機として2010年(平成22年)から本格的に開発が始まり、2013年(平成25年)に試験1号機が打ち上げられた固体ロケットである。M-VロケットとH-IIAロケットの構成要素を流用しながら、全体設計に新しい技術と革新的な打ち上げシステムを採用することで、簡素で安価で即応性が高く費用対効果に優れたロケットを実現することを目的に開発されている。開発が開始された2010年(平成22年)時点では、2段階開発によりM-Vロケットの約3分の2の打ち上げ能力と約3分の1の打ち上げ費用(30億円以下)を実現することが目標とされ、開発第1段階の機体での定常運用で38億円、2017年(平成29年)度頃の開発第2段階の低廉化機体で30億円以下での打ち上げを目指すとされた[4][7]。初代プロジェクトマネージャ(PM)はM-VロケットのPMを務めた森田泰弘である。

イプシロン (Ε) の名前は、ラムダ (Λ) ロケット・ミュー (Μ) ロケットなど日本で開発されてきた固体ロケット技術を受け継ぐ意味を込めギリシア文字が用いられた[10]。公式には「Evolution & Excellence(技術の革新・発展)」「Exploration(宇宙の開拓)」「Education(技術者の育成)」に由来する。また試験1号機の打ち上げ後の記者会見で、「ε(イプシロン)」が数学で小さい数字を表し、イプシロンロケットが、ミュー (M) ロケットを受け継ぎながら、全く別次元に変身したロケットなため「m(ミュー)」を横倒しにした「ε(イプシロン)」と命名されたことが明らかにされている[11]。正式な名称のない頃から、一部報道で名称は「イプシロン(エプシロン)ロケット」が有力候補とされていた[12]。また、ISASのOBなどが参加するトークライブなどでは、「いいロケット」の駄洒落で「Eロケット」→「イプシロンロケット」になったと言う話が公式決定前から出ている。

イプシロンロケットは2013年11月7日に、公益財団法人日本デザイン振興会による2013年度グッドデザイン賞において金賞(経済産業大臣賞)を受賞している[13][14]。
引用元:イプシロンロケット – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

糸川英夫
いとかわひでお
[生]1912.7.20. 東京,東京
[没]1999.2.21. 長野,丸子
宇宙工学者。ペンシル・ロケット開発のリーダーで,日本のロケット開発の父と呼ばれる。1912年東京府東京市麻布区(今日の東京都港区西麻布)で生まれる。第一東京市立中学校(今日の九段高等学校),旧制東京高等学校理科甲類を経て,1935年東京帝国大学工学部航空学科を卒業。卒業後中島飛行機に入社し,日本陸軍の九七式戦闘機,一式戦闘機『隼』,二式単座戦闘機『鍾馗』などの設計に参加。1941年東京帝国大学第2工学部助教授に就任。1948年同教授。1954年東京大学生産技術研究所内に AVSA; Avionics and Supersonic Aerodynamics(航空電子工学および超音速空気力学)研究班を組織した。1955年4月東京都の国分寺市でペンシル・ロケットの水平発射実験を行ない,また同 1955年8月からは秋田県の道川海岸で飛翔実験を行なった。同 8月ベビー・ロケットを発射。1956年カッパ・ロケットを発射。以後 1960年代はラムダ・ロケットの開発を指導。1967年東京大学を中途退官して組織工学研究所を設立し,これを機に宇宙開発の前線から去った。システム工学の社会的実践に努め,その後イスラエルとの友好に情熱を注いだ。晩年は長野県丸子町(今日の上田市)に移り住み,1999年多発性脳梗塞のため,丸子町の病院で死去。2003年小惑星探査機『はやぶさ』の探査対象が糸川の名にちなんでイトカワと命名された。2012年に生誕 100周年を記念して内之浦宇宙空間観測所内に銅像が建立され除幕式が行なわれた。
引用元:糸川英夫(イトカワヒデオ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B3%B8%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E5%A4%AB-685425