【娘婿】川本幸民『気海観瀾広義』【瀾】波

江戸時代後期に宇田川榕菴が
著した日本初の化学者は
『舎密開宗』ですが

1827年に青地林宗が著した
日本初の物理学書は?
書舎密瀾宗
海気学開観
気海観瀾(答)
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「化学」という言葉を考案し
マッチやビールを日本で初めて
制作した、「日本の化学の父」
と呼ばれる幕末の化学者は?
川曜本徹三
真田民原幸
川本幸民(答)

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幕末・明治期の技術者
幕府の通詞としても活躍
日本橋の鉄橋を長崎に建設
日本活版印刷の先駆者
川本幸民
本木昌造(答)
上野彦馬
下岡蓮杖
引用元:「下岡蓮杖」職業写真家の草分け 当初狩野派の画家 写真館全楽堂 「上野彦馬」日本初の戦場カメラマン 「本木昌造「通詞として活躍した日本活版印刷の創始者」「長崎の鉄橋(くろがねばし)」 | 【QMA復習】わかればいいのに https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/3040/

次の文字列を組み合わせて江戸時代に「木門の十哲」と呼ばれた木下順庵の弟子の名前にしなさい
三宅───観瀾 みやけかんらん
南部───南山 なんぶなんざん
松浦───霞沼 まつうらかしょう

気海観瀾
きかいかんらん
日本で最初の物理科学書。青地林宗(あおちりんそう)が1825年(文政8)に訳述、27年に刊行。すでに『格物綜凡(かくぶつそうはん)』と題して訳述していたボイスJohannes Buys著の理科の書『Natuurkundig Schoolboek』(1798)のなかから「気性」に関する部分だけ数十章を抄出したもので、漢文で書かれ、簡略で意義は難解である。林宗は「理科は義理の大学」といい、また「理科は物則の学なり」とも規定し、経験科学を唱道している。
 本文は物質の定義に始まり、引力・圧力などの力学、気体・液体・固体の性質、光・色・音から、風・雲・雷電・虹(にじ)・潮汐(ちょうせき)などの自然現象に及ぶ40項目からなり、自ら試作した器具も利用して19の図を添えて解説を深めている。それまでの伝統的な宋(そう)哲学に基づく観念的思弁の「窮理(きゅうり)の学」から離脱して、近代的「究理」の思考に立脚している点が特色である。この立場は川本幸民(こうみん)や帆足万里(ほあしばんり)、広瀬元恭(げんきょう)らに継承された。[片桐一男]
『狩野亨吉他監修『日本科学古典全集6 気海観瀾』復刻版(1978・朝日新聞社)』
引用元:気海観瀾(キカイカンラン)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%97%E6%B5%B7%E8%A6%B3%E7%80%BE-472398

異国船の来航と開国の衝撃は、知識人たちの間に、医学や地理学ばかりでなく、西洋の科学をより体系的に学ぼうという気運をもたらしました。

物理学の研究では、ゴロウニンの『日本幽囚記』等の翻訳でも知られる青地林宗(あおちりんそう 1775-1833)がオランダ人ボイスの著に基づき『気海観瀾』を著し(1827年刊)、先駆者と目されていましたが、青地の娘婿の川本幸民(かわもとこうみん 1810-71)は、漢文で要点のみを記した『気海観瀾』の内容に飽き足らず、その増補を試みます。嘉永3年(1850)に完成したのが、資料の『気海観瀾広義』。全15巻の内容は、費西加(ヒシカ=窮理学、物理学)の意義に始まり、物性、運動、熱、光、電気、磁気におよび、天体や光学器械についても詳しく解説されています。全15冊。嘉永4年(1851)から安政5年(1858)まで、全巻刊行に8年を要しました。

川本幸民、名は裕。摂津三田藩の医者で、のちに鹿児島藩主島津家の家来。蕃書調所の教授手伝を経て、文久2年(1862)に洋書調所の教授職を拝命しました。彼はまた日本で最初にビールを醸造した人として、日本ビール史にその名が刻まれています。
引用元:激動幕末 – 30.気海観瀾広義:国立公文書館 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/30.html

気海観瀾広義
きかいかんらんこうぎ

物理学書。川本幸民(こうみん)が訳述し、岳父青地林宗(あおちりんそう)訳述の『気海観瀾』を増補したもの。15巻からなる。1850年(嘉永3)原稿完成、51~58年に5冊にまとめて刊行した。林宗は依拠した原書の「気性」の部だけを刊行したが、幸民は同一原書の1828年版を用い、イスホルジングJ. N. Isfordingの著書なども参考にして「気性」以外の内容を明らかにした。
 内容は物理学が主であるが、理学一般の総論から、力学・化学・熱学・電気学・光学などの説明がなされ、天体や潮汐(ちょうせき)の理も詳述されている。巻末に図解25を掲げて理解を助け、完備した理科の書となっている。林宗の書が漢文で難解なのに比べ、本書は和文をもって平易に解説しており、広く用いられてその影響が大きかった。[片桐一男]
『狩野亨吉他監修『日本科学古典全集6 気海観瀾広義』復刻版(1978・朝日新聞社)』
引用元:気海観瀾広義(きかいかんらんこうぎ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%97%E6%B5%B7%E8%A6%B3%E7%80%BE%E5%BA%83%E7%BE%A9-1522462

き‐かい【気海】

1 空気が地球を包んでいるようすを海にたとえていう語。大気のある範囲。
2 漢方で、へその下方1寸5分(大人で約3センチ)の所。任脈(にんみゃく)に属し、腎炎・糖尿病などの治療点。
引用元:気海(キカイ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%97%E6%B5%B7-472375

「瀾」の部首・画数・読み方・意味など
部首 水 氵 氺 (みず・さんずい・したみず)
画数 20画
音読み ラン
訓読み なみ
なみだ(つ)
意味 波。大波。さざなみ。なみだつさま。
引用元:「瀾」の部首・画数・読み方・意味など https://kanji.jitenon.jp/kanjii/4454.html

観瀾閣
かんらんかく
観瀾閣

国登録有形文化財 平成9.11.5

 満州土木建築業協会理事長を勤めた榊谷仙次郎が建てた別荘です。

 木造2階建で,外壁をタイル張りとしています。下蒲刈島の海岸に沿った立地と中国の磚造建築の意匠を取り入れた特異な外観に特徴があり,内部の建具や欄間に用いられた技能の水準も高いものです。
引用元:観瀾閣|呉市の文化財 – 呉市ホームページ https://www.city.kure.lg.jp/site/bunkazai/kunitouyubun-1.html

三宅 観瀾(みやけ かんらん、延宝2年(1674年) – 享保3年8月21日(1718年9月15日))は、江戸時代中期の儒学者。名は緝明(つぐあき)、字は用晦、通称は九十郎、号は観瀾。兄に大坂懐徳堂の学主・三宅石庵がいる。

生涯[編集]
延宝2年(1674年)、京都の町人儒者である三宅道悦の次男として生まれる。

はじめは浅見絅斎を師とし、後に木下順庵の門下となり朱子学を学ぶ。元禄11年(1698年)に江戸に下り、翌元禄12年(1699年)に栗山潜鋒の推薦で水戸藩に仕えた。彰考館総裁の鵜飼錬斎が、観瀾がかつて書いた楠木正成についての文章を徳川光圀に見せたことがきっかけで彰考館編修となり『大日本史』編纂に従事。新田義貞・楠木正成や名和長年の伝を書く。元禄13年(1700年)には200石を給され、宝永5年(1708年)に編修と兼務で進物番に昇進。宝永7年(1710年)に彰考館総裁となる。正徳元年(1711年)、新井白石の推薦により江戸幕府に登用されるが、徳川吉宗が将軍職を継いだ際に失脚した白石に連座することを恐れて『懐書』という弁明を書き、この中で自らが順庵門下であることを否定している。

享保3年(1718年)、死去。梁田蛻巖など多くの文人にその死を惜しまれた。
引用元:三宅観瀾 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E8%A6%B3%E7%80%BE