「水谷豊」日本で初めてコンタクトレンズを作った眼科医


「日本のコンタクトレンズ
の父」といわれる、ニチコンを
創業した眼科医は?
寺脇康文
山西惇
水谷豊(答)
神保悟志
56%

129XepvSOrviN
ハードコンタクトレンズで
現在主流となっている
酸素透過性レンズのことを
「◯◯◯レンズ」という?
CBAU
PGRK
RPG(答)
「RGPレンズ」
Rigid Gas Permeable Lens
引用元:「RGP」レンズ 酸素透過性レンズ Rigid Gas Permeable Lens http://seethefun.net/%E7%90%86%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/7352/

水谷 豊(みずたに ゆたか、 1913年 – 1991年)は、日本の眼科医。日本で初めてコンタクトレンズを作り、臨床応用を実施。後にコンタクトレンズメーカー「日本コンタクトレンズ(ニチコン)」を創業。コンタクトレンズの発展に貢献し、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる。1975年日本医師会最高優功賞受賞。日本コンタクトレンズ学会名誉会員(1986年~1991年)。愛知県名古屋市出身。

水谷がコンタクトレンズに取り組んだきっかけは、円錐角膜に悩む高校生との出会いであった。1949年11月、名古屋大学病院で診療をしていた水谷のもとに、1人の高校生とその母親が訪れた。高校生を診察してみると、右眼、左眼ともに0.1に満たない視力。円錐角膜という症状で、通常の近視等とは違い、眼鏡では矯正できない状態であった。水谷は処置方法に困ったが、「成績も落ち、神経質になっている。家庭も暗くなっている」という親子の悲痛な訴えに、ドイツの医学書に『ガラス製のコンタクトレンズで円錐角膜の患者の視力が矯正できた』という記事があったことを思い出し、「似た物を作ってみる」という返答をしたのであった。
こうして、水谷はコンタクトレンズ作りに取り組むことになった。まずコンタクトレンズの材料として、当時出回り始めていたプラスチックを使うことを思いつく。プラスチックならガラスのように割れることもなく安全性が高いと考えた(ちょうどこの頃、アメリカでプラスチック製のコンタクトレンズが作られ始めたが、戦争直後で占領下にあった時代、そうした情報は水谷のもとには届いていなかった)。次に、知り合いの歯医者から、型を取ってプラスチック製の義歯を作る技術、すなわちプラスチックを成形する技術を教わった。その後、通常の医師としての勤務を終えた後、毎夜、自宅の台所で100度近い熱湯を使ってプラスチックを成形し、レンズを切り出す作業に悪戦苦闘する日々が続いた。この間、水谷は大学病院の職を辞し水谷眼科診療所を開業。コンタクトレンズ作りに心血を注いだ。
引用元:水谷豊 (医師) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E8%B1%8A_(%E5%8C%BB%E5%B8%AB)

そして苦心の末、昭和25年(1950年)にコンタクトレンズが完成しました。さっそく治療を約束していた高校生を呼んでコンタクトレンズをはめてみたところ、視力は右目0.9、左目0.4まで回復。「患者の驚きと喜びもさることながら、私もその奇跡にあぜんとし、患者が視力表を暗記しているのではないか、夢ではないかと、そっと頬をつねってみた」と水谷は後に語っています。「さらに改良すれば、世の中の目の悪い人をもっと救うことができる」そう考えた水谷はさらなる研究を進め、1958年には本格的なコンタクトレンズ生産にのりだすため「合名会社 日本コンタクトレンズ研究所」を創業、これが現在の日本コンタクトレンズの前身です。
水谷 豊によって視力を取り戻した高校生の喜びが、私たちニチコンの原点です。ニチコンのコンタクトレンズは、この最初のコンタクトレンズのDNAを綿々と引き継いでいる歴史と技術の結晶です。
引用元:日本で最初のコンタクトレンズの話:日本コンタクトレンズ http://www.nipponcl.co.jp/comp/co03.html

「愛知・東京」 (株)日本コンタクトレンズ(資本金3億6820万円、名古屋市中川区好本町3-10、代表水谷純氏、従業員95名)と、子会社の(株)日本コンタクトレンズ研究所(資本金4840万円、中央区日本橋箱崎町1-7、同代表、従業員22名)は、11月15日に名古屋地裁に民事再生法の適用を申請し、同日保全処分命令を受けた。

>創業者の水谷豊氏はコンタクトレンズの研究・開発分野の先駆者で、中部地区の眼科医を中心に「ニチコン」ブランドの製品を供給、円錐角膜用や角膜移植後の角膜不正乱視向けハードコンタクトレンズ、遠近両用ハードコンタクトレンズなど他社の参入が少ない分野に特化し、ディスポレンズの普及が進んだ1996年2月期は年売上高約38億7000万円をあげていた。

>しかし、コンタクトレンズ業者の参入による低価格化やソフトレンズへの需要の高まり、廉価メガネとの競合などとも相まって販売数量は漸減し、2016年2月期の年売上高は約20億1000万円の計上にとどまっていた。この間、損益推移も不安定で留保金の蓄積が遅々として進行しなかったほか、商圏拡大を見据えた買収事業も不調に終わったため、資金の固定化を招いていた。金融機関からの資金調達のメドも立たず自力再建を断念、今回の措置となった。
引用元:倒産速報 | 株式会社 帝国データバンク[TDB] http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/4230.html