「中西悟堂」日本野鳥の会を創設した文人「野鳥」造語


詩人としても活躍
大正・昭和の野鳥研究家
鳥獣保護法の制定に貢献
日本野鳥の会の創設者
山階芳麿
中西悟堂(答)
名和靖
松村松年
22%


北海道大学名誉教授
兄の介石はキリスト教伝道者 
昆虫の学名の命名法を考案
著書『日本昆虫学』
松村松年(答)

連想
大森貝塚発掘にも参加
ソメイヨシノに学名を付ける
ワサビに学名をつける
小石川植物園の初代園長
松村任三(答)

連想
昭和天皇の従兄弟
ジャン・デラクール賞を受賞
鳥類研究所を創設
ヤンバルクイナを発見
山階芳麿(答)

連想
生物分布の境界線のひとつ
日本の鳥類学者にちなむ
命名者は山階芳麿
沖縄諸島と八重山諸島の間
蜂須賀線(答)

文字パネル
岐阜公園には彼の名を冠した昆虫記念館と博物館もあるギフチョウの発見などで有名な昆虫学者は?
名和靖(答)

中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 – 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人。文化功労者。天台宗僧侶。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。
「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。

>「日本野鳥の会」創立[編集]
日本野鳥の会創立の目的は、鳥類愛護の思想の普及と、鳥類研究の推進が掲げられた。会創立の1934年(昭和9年)の6月には、富士山裾野の須走において、後に「探鳥会」と呼ぶようになる初めての野鳥観察会を開催。当初の会員は悟堂の知己である文学者、鳥類学者などの文化人や貴族などに限られたが、精力的な活動により、徐々に各地に支部が設立され、会員も増加する。1944年(昭和19年)には、会員数はおよそ1800名となった。また、同地区に「野鳥村」を作る構想があったようである。しかしながら、資金の持ち逃げに会い、結局「野鳥村」が作られることはなかった。その後、一時は東北に疎開したが、戦後は再び西多摩地区に戻り、1954年まで暮らした。
1947年(昭和22年)、戦後は休止状態にあった日本野鳥の会を再開する。その後は、カスミ網禁止の法制化、サンクチュアリーの設置など、自然保護や野鳥保護活動に尽力し、鳥獣保護法の制定にも貢献した。
引用元:中西悟堂 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E6%82%9F%E5%A0%82

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
中西悟堂
なかにしごどう
(1895―1984)

野鳥研究家。明治28年11月16日石川県金沢市に生まれる。幼名富嗣(とみつぐ)。10歳で養父悟玄の教化により秩父(ちちぶ)山中で断食の苦行を行い鳥に親しむ。15歳で仏門に帰依(きえ)し法名悟堂。天台宗学林に入学。20歳で歌集『唱名』(1916)を出版。以後30歳まで仏門にあって作詩作歌活動を展開。その後、鳥虫魚の飼育観察に取り組み、36歳で『虫・鳥と生活する』(1932)を出版。2年後に日本野鳥の会を創立し機関誌『野鳥』(1934)を発刊。同時に富士山麓(さんろく)での探鳥会を始め、探鳥ブームの基礎を築いた。当時流行していた飼い鳥の廃止を訴え、のちにかすみ網の全廃運動の陣頭にたち、野鳥保護思想の啓蒙(けいもう)普及に生涯を捧(ささ)げた。『野鳥と生きて』(1956)で日本エッセイスト・クラブ賞、『定本野鳥記』で読売文学賞を受賞。主要著作114点。比叡(ひえい)山天台宗権僧正(ごんそうじょう)。紫綬褒章(しじゅほうしょう)、文化功労者、勲三等旭日(きょくじつ)中綬章などを受けた。昭和59年12月11日肝臓癌(がん)で死去。[藤原英司]
『中西悟堂著『定本野鳥記』全16巻(1962~1986・春秋社) ▽小谷ハルノ著『父・悟堂』(1985・永田書房)』
引用元:中西悟堂(なかにしごどう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E6%82%9F%E5%A0%82-107785

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
松村松年
まつむらしょうねん
(1872―1960)

昆虫学者。兵庫県明石町に生まれる。1895年(明治28)札幌農学校を卒業、翌年同校助教授となる。1907年(明治40)に東北帝国大学農科大学教授、1919年(大正8)には前記の農科大学が独立してできた北海道帝国大学教授となり、1934年(昭和9)退官し名誉教授、1950年(昭和25)学士院会員に推され、1954年には文化功労者に選ばれた。日本における昆虫学の先覚者で、昆虫全般にわたって研究を行い、多数の新種を記載発表したのみならず、『日本昆虫学』『大日本害虫全書』『昆虫分類学』『日本千虫図解』『日本通俗昆虫図説』『日本昆虫大図鑑』など多数の著書や啓蒙(けいもう)記事で昆虫学の普及に努めた。宗教家の松村介石(かいせき)は実兄にあたる。[中根猛彦]
『小西正泰解説『復刻 日本昆蟲学』(1984・サイエンティスト社)』
引用元:松村松年(まつむらしょうねん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%9D%91%E6%9D%BE%E5%B9%B4-136753

松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 1928年5月4日)は日本の植物学者。
>東京帝国大学理学部植物学教室教授、付属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した[1]。位階勲等は正三位勲一等。現在の茨城県高萩市出身。同市にあるかやぶきの生家は2012年12月10日の火災によって全焼した[2]。
引用元:松村任三 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9D%91%E4%BB%BB%E4%B8%89

山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年(明治33年)7月5日 – 1989年(平成元年)1月28日)は、日本の元皇族。旧名、芳麿王。山階宮菊麿王と同妃範子(先妻)の第二王子。
山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。
引用元:山階芳麿 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%9A%8E%E8%8A%B3%E9%BA%BF

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
名和靖
なわやすし
(1857―1926)

昆虫研究家。美濃(みの)国本巣郡船木村(現、岐阜県瑞穂(みずほ)市重里(しげさと))に生まれる。岐阜農学校を卒業し、母校と華陽学園に数年在職したのち、東京帝国大学で研修を積んだ。その後、岐阜師範学校および中学校で教鞭(きょうべん)をとったが、1896年(明治29)に退職、岐阜市に名和昆虫研究所を設立した。以後はもっぱら昆虫学と農作害虫などの予防と駆除の普及に努めた。1897年に出版した『薔薇(ばら)の一株昆虫世界』はバラをめぐって展開される昆虫の生活を描いて人々の注意を促している。ほかに『新式昆虫標本製作法』などの著書もあり、また名和昆虫研究所から1897年以降1946年(昭和21)まで発行した月刊誌『昆虫世界』には多数の論説、報告などを執筆した。名和昆虫研究所は岐阜市岐阜公園内にあり、第二次世界大戦までは全国害虫駆除講習会を開催するなど日本の昆虫学界に大きな貢献をした。1907年(明治40)には記念昆虫館が、1919年(大正8)には昆虫博物館が建設され、現在は昆虫博物館を中心にギフチョウ(1883年に靖が発見)などの常設展示、昆虫教室などの活動をしている。2代目梅吉、3代目正男、4代目秀雄が後を継いでいる。[中根猛彦]
引用元:名和靖(ナワヤスシ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%90%8D%E5%92%8C%E9%9D%96-590332