戦時中の原子核分裂研究者「仁科芳雄」「荒勝文策」「菊池正士」

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次のうち、戦時中に
原子核分裂の研究をしていた
物理学者を全て選びなさい
荒勝文策(答)あらかつぶんさく
高柳健次郎 たかやなぎけんじろう「日本テレビの父」
田中舘愛橘 たなかだてあいきつ「地球物理学者」日本式ローマ字
仁科芳雄(答)
菊池正士(答)
八木秀次 やぎひでつぐ「八木アンテナ」
中谷宇吉郎 なかやうちきろう「人工雪」
西川正治 にしかわしょうじ「スピネルの結晶構造決定」

第二次世界大戦(太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。
>1941年4月に陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託[1]、アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年1月に、同研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から[2])が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。
他方、日本海軍のF研究も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、1942年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。
引用元:日本の原子爆弾開発 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA

仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)12月6日 – 1951年(昭和26年)1月10日)は、日本の物理学者である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。
引用元:仁科芳雄 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E8%8A%B3%E9%9B%84

荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 – 1973年6月25日)は、日本の物理学者。京都大学名誉教授。兵庫県姫路市出身。
>専門は原子核物理学。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。台北帝国大学教授時代の1933年には、アジアで初めてコッククロフトワルトン型加速器を作り、原子核人工変換の実験を成功させた。
>1941年5月、日本海軍より原子核分裂の技術を用いた爆弾の開発を依頼された。時期としては、アメリカの原爆開発開始と比べても決して遅れたものではなかった。この計画には湯川秀樹らも加わっていた。一方で、日本陸軍は理研の仁科芳雄に原爆の開発を依頼し、「海軍-京大」「陸軍-理研」という2つの研究開発が別々に並行して進められた。もともと工業力や人的資源の厚みに劣る日本にとって、このような計画は無謀であったと言えよう(詳細は日本の原子爆弾開発を参照)。
引用元:荒勝文策 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%8B%9D%E6%96%87%E7%AD%96

菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25日 – 1974年(昭和49年)11月12日)は、日本の原子物理学の第一人者として知られた物理学者。元大阪大学教授。日本学士院会員。従三位 勲一等 瑞宝章。
>1928年(昭和3年)に電子線回折に関する実験に成功して世界的に認められ[2]、1932年(昭和7年) 東京大学から理学博士号 題は「Zur Theorie des Comptoneffektes(コムトン効果に就て)」 大阪帝国大学理学部教授に就任してからはサイクロトロンの建設に尽力した[1]。その後東京大学原子核研究所長[1]、日本原子力学会会長[1]、日本原子力研究所所長、東京理科大学長等を歴任した[1]。
引用元:菊池正士 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A3%E5%A3%AB