「南京条約」アヘン戦争後の不平等条約「天津条約」アロー戦争後の不平等条約「北京条約」天津条約の追加条約「下関条約」日清戦争の講和条約


中国の清が
19世紀に結んだ
次の条約を
古い順に選びなさい
南京条約
天津条約
北京条約
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中国の清が
19世紀に結んだ
次の条約を
古い順に選びなさい
天津条約
北京条約
下関条約

南京条約
アヘン戦争の結果、1842年イギリスと清の間で締結された条約。清が香港の割譲と5港の開港などを認め、開国した。また付則の五港通商章程、追加条約の虎門寨追加条約を含めて南京条約といい、関税自主権の喪失、領事裁判権の承認、片務的最恵国待遇という不平等条約であり、中国の半植民地化の第一歩となった。

> 本条約と、付則である五港通商章程、追加条約である虎門寨追加条約とあわせて「南京条約」とする。その内容は、領土割譲・賠償金支払いと自由貿易を認めたことに加えて、次の三点で不平等条約であったということである。
領事裁判権(治外法権)を認めたこと
関税自主権を喪失したこと
片務的な最恵国待遇を認めたこと
 これによって中国の半植民地化の第一歩となったという、歴史的意義がある。イギリスは香港島を領土とし、要求であった自由貿易を実現し、アヘン貿易も事実上公認させた。更にこの情勢は、第二次アヘン戦争とも言われるアロー戦争の結果締結された1858年の天津条約、およびそれを再確認した北京条約によって、外国公使の北京駐在権、開港場の追加、外国人の交通・通商の自由、キリスト教の布教の自由、などが認められて、不平等状態は拡大強化されていく。
引用元:南京条約 http://www.y-history.net/appendix/wh1303-031.html

ンキンじょうやく【南京条約 Nán jīng tiáo yuē】

イギリスが中国と結んだ最初の不平等条約。江寧条約ともいう。1842年8月29日(道光22年7月24日)英艦コーンウォリス号において,清国全権耆英(きえい),伊里布とイギリス全権ポティンジャーH.Pottingerとの間に南京条約全13条が締結された。ここにアヘン戦争は終りを告げ,同条約は翌年6月に香港で批准された。南京条約では,(1)広州,福州,厦門(アモイ),寧波(ニンポー),上海の5港を開放して商埠とし,イギリス人の居住・交易を許可すること,(2)香港の割譲,(3)アヘンの賠償,公行商人の債務,戦費の賠償として計2100万ドル(広州贖城費600万ドルは別計算)の支払い,(4)関税率を相方の合意に基づいて協定すること,(5)開港場における領事の駐在,(6)公行制度の廃止,などが規定された。
引用元:南京条約(ナンキンじょうやく)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%9D%A1%E7%B4%84-108772

天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。
1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスの4国と結んだ。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。
引用元: 天津条約 (1858年) – Wikipedia.

北京条約(ぺきんじょうやく、Convention of Peking)は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。
>アロー戦争後に天津条約が結ばれ英仏軍が引き上げたが、この条約の結果では英仏は満足していなかった。また清の朝廷内部では条約に対する非難が高まり、清は条約に定められた1年以内の批准を拒んだ。このため英仏軍は再び天津に上陸、咸豊帝は熱河へ撤退し、北京を任された恭親王も英仏連合軍の侵攻が始まると表に出てこなくなった。北京を占領した連合軍は円明園を略奪し焼き払い、恭親王に最後通牒を送った。結局、ロシアの仲介で北京にあった礼部衙門において清と英仏連合軍との交渉が行われ、清とイギリス、清とフランスとの間に新たな条約が結ばれた。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。いずれも不平等条約である。
引用元: 北京条約 – Wikipedia.

下関条約(しものせきじょうやく)は、1895年4月17日に春帆楼(しゅんぱんろう)で締結された、日清戦争後の講和会議における条約である。正式名称は日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。
会議が開かれた山口県の赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」[1]をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく、簡体字:马关条约、繁体字:馬關條約、ピン音:Mǎguān tiáoyuē)と呼ばれた。「下関条約」は、この「馬関条約」の言い換えであり[2][3]、もう一方の当事国である中国では、共産党時代の現在でも「馬関条約」という。
引用元: 下関条約 – Wikipedia.