「鷲尾雨工」直木賞第2回受賞者『吉野朝太平記』 「海音寺潮五郎」第3回受賞者『天正女合戦』と『武道伝来記』

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第2回直木賞を受賞した作家は
海音寺潮五郎である
×(答)
◯鷲尾雨工

鷲尾雨工はタイピングで聞かれるので覚えておきましょう

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第1回直木賞を受賞した作家は
川口松太郎ですが

第2回直木賞を受賞した作家は
◯◯◯◯?
◯の漢字をひらがなで答えなさい
わしおうこう
鷲尾雨工

鷲尾 雨工(わしお うこう、本名:鷲尾 浩、1892年4月27日 – 1951年2月9日)は日本の小説家。
新潟県西蒲原郡黒鳥村(現・新潟市西区黒鳥)生まれ。新潟県立小千谷中学校、早稲田大学英文科卒業。
作家を志し、学生時代にはダヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リミエ』を翻訳出版。卒業後、直木三十五とともに冬夏社を経営するも関東大震災により半年で倒産。
『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞。代表作に『明智光秀』『甲越軍記』などの歴史小説がある。
ペンネームは夫人が『南総里見八犬伝』から得たもの。 
引用元: 鷲尾雨工 – Wikipedia.

歴史小説名作館
吉野朝太平記〈第2巻〉正儀策謀・師直の死
鷲尾雨工【著】
誠文図書;共栄図書〔発売〕
2001/09/01出版
343p 19cm(B6)
ISBN:9784881951019 (4881951017)
神算、奇謀―東条城の密室で正儀が案出する妙計の数々、巨万の富に物言わす商人唐土屋の協力、神出鬼没の八忍衆。
驕慢あくなき高師直と副将軍直義のあつれき等、才筆いよいよ冴えて迫力満点。
名匠鷲尾雨工が、動乱の南北朝時代をダイナミックに描き切った傑作歴史絵巻。
引用元: BookWebPro 和書検索.

故直木三十五氏と、生前、交流のあった受賞者。決して仲がよかったわけではなく、
なかば反目し合っていたというから、皮肉な受賞だったわけです。

ちなみに、第2回受賞作は、ほとんどの文献では『吉野朝太平記』としか書かれていませんが、
正確には、『吉野朝太平記』第一巻・第二巻、です。
>選考委員の一人、菊池寛氏も「話の屑籠」で、ちゃんとこのように書いています。
「直木賞は、鷲尾雨工氏に贈る事にした。「吉野朝太平記」二巻は、何と云つても力作で、売れる当もないのにあゝした長篇を書き上げた努力は、充分認められてもよいと思ふ。」
引用元: 鷲尾雨工-直木賞受賞作家-2WU.

川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 – 1985年(昭和60年)6月9日)は日本の小説家、劇作家、日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。松田昌一の名で映画脚本も手がける。
東京市浅草区浅草今戸町(現在の東京都台東区今戸)出身。学歴は石浜小学校卒業。後妻は女優の三益愛子。三益との子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)[1]。、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。
>1935年(昭和10年)、『鶴八鶴次郎』などで第1回直木賞を受賞。代表作の『愛染かつら』(1937~1938)は、1938年(昭和13年)に映画化され、田中絹代・上原謙の主演で人気を博した。1964年(昭和39年)、文京区小石川水道町(現在の春日)へ移住、ここから亡くなるまで約20年間暮らすこととなる。1966年(昭和41年)、日本芸術院会員(第三部・演劇)。1973年(昭和48年)、文化功労者。
引用元: 川口松太郎 – Wikipedia.

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年(明治34年)11月5日 – 1977年(昭和52年)12月1日、戸籍上は3月13日生)は、日本の小説家・作家。本名は末富 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子(2011年6月19日没)。
>海音寺は第1回直木賞から候補者として名を連ね、第3回で受賞しているが、この当時、既に多くの作品執筆依頼があり、作家としての生活が軌道にのっていた海音寺は、創設直後の直木賞にあまり魅力を感じなかったこともあり、同じく第1回から候補者となっていた浜本浩が受賞すべきだとして受賞辞退を申し出た。しかし、「既に決まったことだから」という関係者の説得に折れて、受賞を承諾している。
>なお、受賞作は一般に「天正女合戦」と「武道伝来記」の2作品とされているが、これは当時の選考委員だった吉川英治らがこの両作品を批評していることを根拠とするものであり、受賞作がこの2作品であると明記されている文献は存在しない。
引用元: 海音寺潮五郎 – Wikipedia.