「鈴虫」二千円札 『箒木』ははきぎ『源氏物語』第二帖「雨夜の品定め」 「冷泉帝」光源氏と藤壺中宮の子 『総角』あげまき『源氏物語』第47帖 「藤原彰子」一条天皇・臣下に紫式部

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現在、発行されている二千円札に
描かれている『源氏物語絵巻』は
何という巻のもの?
空菜
桐虫
若坪
鈴虫(答)
36%

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紫式部が著した『源氏物語』で
第二帖の巻名は?
夕顔
箒蝉
桐壷
箒木(答)
ははきぎ

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紫式部の『源氏物語』で
光源氏と葵の上の子は夕霧ですが
光源氏と藤壺中宮の子は○○帝?
○の漢字をひらがなで答えなさい
れいぜい
「冷泉帝」

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紫式部の『源氏物語』
第47帖の名前です
総角
あげまき

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次の藤原道長の娘と
嫁いだ相手の
正しい組み合わせを選びなさい
藤原彰子───一条天皇
藤原妍子───三条天皇
藤原威子───後一条天皇

「鈴虫」(すずむし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第38帖。横笛の並びの巻とされている。巻名は女三宮と光源氏の歌「おほかたの秋をばうしと知りにしをふり棄てがたきすず虫のこえ」および「こころもて草のやどりをいとへどもなほすず虫の声ぞふりせぬ」による。
>二千円札[編集]
現在発行されている二千円札の裏の左側に描かれているのは、『源氏物語絵巻』の「鈴虫」その二の絵の一部(左が冷泉院で右が光源氏)と詞書の上部(「十五夜の夕」暮れに仏の御前「に宮おはしては」し近く…)。二千円札では縦書きの詞書の上半分でカットされているため、文章としては読めない。
引用元:鈴虫 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E8%99%AB

『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は1008年(寛弘五年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。
> 1 桐壺 きりつぼ 源氏誕生-12歳 a系
2 帚木 ははきぎ 源氏17歳夏 b系
3 空蝉 うつせみ 源氏17歳夏 帚木の並びの巻、b系
4 夕顔 ゆうがお 源氏17歳秋-冬 帚木の並びの巻、b系
5 若紫 わかむらさき 源氏18歳 a系
6 末摘花 すえつむはな 源氏18歳春-19歳春 若紫の並びの巻、b系
引用元: 源氏物語 – Wikipedia.

帚木」(ははきぎ)は、『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。「桐壺」に続く第2帖。巻名は作中で光源氏と空蝉が交わした和歌「帚木の心をしらでその原の道にあやなくまどひぬるかな」及び「数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木」に因む。本帖とそれに続く空蝉・夕顔の三帖をまとめて「帚木三帖」と呼ぶことがある。
>五月雨の夜、17歳になった光源氏のもとに、頭中将が訪ねてきた。さらに左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)も交えて、4人で女性談義をすることになる。この場面は慣例的に『雨夜の品定め』と呼ばれる。
引用元: 帚木 (源氏物語) – Wikipedia.

冷泉帝/冷泉院(れいぜいてい・れいぜいのみかど/れいぜいいん)は、『源氏物語』に登場する三番目の帝(在位:「澪標」~「若菜下」。治世18年間は光源氏の全盛期であった)。架空の人物。五十四帖中「紅葉賀」から「橋姫」まで登場。
桐壺帝の第十皇子ということになっているが、実は光源氏と藤壺中宮の不義の子。朱雀帝の東宮となり、11歳で即位。今上帝に譲位するまで18年、世を治めた。譲位後は冷泉院(実在した歴代の上皇の御所)に住まったことから「冷泉帝」の通称で呼ばれる。
引用元: 冷泉帝 – Wikipedia.

「総角」(あげまき)は、『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第47帖。第三部の一部「宇治十帖」の第3帖にあたる。巻名は薫が一周忌法要に事寄せて大君に詠んだ和歌「あげまきに 長き契りをむすびこめ おなじところに よりもあはなむ」(あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ)に因む。
引用元: 総角 (源氏物語) – Wikipedia.

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。
女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句があまりにも有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。
引用元: 藤原彰子 – Wikipedia.

藤原 妍子(ふじわら の けんし/きよこ、正暦5年3月(994年4月) – 万寿4年9月14日(1027年10月16日))は、摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威子・嬉子。
引用元: 藤原妍子 – Wikipedia.

藤原威子
ふじわらのいし

[生]長保1(999)
[没]長元9(1036).9.6.
後一条天皇の皇后。道長の娘。母は源倫子。寛仁2 (1018) 年入内し女御となる。同年中宮妍子を皇太后とし,威子は中宮となった。当時天皇は 11歳,威子は 20歳。道長が一家繁栄の道を開く最後の布石であった。
引用元: 藤原威子(ふじわらのいし)とは – コトバンク.