【謙徳公】藤原伊尹(これただ)

次の『小倉百人一首』に
収められた和歌の
最初の部分とその作者の
正しい組み合わせを選びなさい
あはれともいふべき人は─謙徳公
今はただ思ひ絶えなむ─左京大夫道雅
秋風にたなびく雲の─左京大夫顕輔
25%


次の『小倉百人一首』の
詠み人とその正体の
正しい組み合わせを選びなさい
三条右大臣───藤原定方
謙徳公───藤原伊伊
河原左大臣───源融
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『小倉百人一首』に収められた
源融の和歌は「みちのくの
◯◯◯◯◯◯◯誰ゆえに
みだれそめにし我ならなくに」?
のしぢずもりぶ
しのぶもぢずり(答)

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『小倉百人一首』に収められた
和歌「音に聞く 高師の浜の
あだ波は かけじや袖の
ぬれもこそすれ」の作者は?
子祐家伊紀親王内
祐子内親王家紀伊(答)
ゆうしないしんのうけのきい
引用元:「三条右大臣」藤原定方「謙徳公」藤原伊尹「河原左大臣」源融 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/36926/

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男。

妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めたが、まもなく病気により早逝した。孫に書家として名高い藤原行成がおり、子孫は世尊寺家として書道を世業とした。

天禄元年(970年)正月に右大臣を拝す。5月に摂政太政大臣・藤原実頼が薨去すると、天皇の外伯父である伊尹は藤氏長者となり摂政に任じられた。翌天禄2年(971年)には太政大臣に任じられ、正二位に進む。ここに伊尹は名実共に朝廷の第一人者となったが、それから程ない天禄3年(972年)8月頃病に倒れる[1]。10月には重篤な状態となったらしく円融天皇から病気平癒のために度者80名を与えられるが[2]、10月末に死期を悟った伊尹は上表して摂政を辞し、11月1日薨去。享年49。最終官位は太政大臣正二位。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。死因は飲水病(糖尿病)[3]あるいは悪瘡とされる[1]。
引用元:藤原伊尹 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E5%B0%B9

藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、儀同三司・伊周の長男。官位は従三位・左京大夫。小倉百人一首では左京大夫道雅。

人物
花山法皇の皇女を殺させた、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行が絶えなかったため、世上荒三位、悪三位などと呼ばれたという。

その一方で和歌には巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られている。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と、勅撰和歌集に合わせて7首が入集[7]。

『小倉百人一首』には道雅が当子内親王に贈った歌が採られている。

今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
— 『小倉百人一首』第63番
引用元:藤原道雅 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%9B%85

藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ)は、平安時代後期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の三男。官位は正三位・左京大夫。六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔。六条藤家2代。

小倉百人一首
79番 秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ (『新古今和歌集』秋・413)
引用元:藤原顕輔 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E8%BC%94