【藻塩】

『小倉百人一首』に収められた
藤原定家の和歌は「こぬ人を
まつほの浦の夕なぎに◯◯◯
◯◯◯◯身もこがれつつ」?
焼くしもやのほ
焼くやもしほの(答)
38%


次の『小倉百人一首』の
詠み人を第一首から
順に選びなさい
猿丸太夫 5奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
小野小町 9花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに
大江千里 23月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
紀貫之 35人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
和泉式部 56あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな
西行 86嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
順徳院 100ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
35%
引用元:猿丸太夫 紀貫之 西行 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/40789/

百人一首の訳をお願いします。

藤原定家「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ」

待っていても来ない恋人を待っている私は 松帆の浦の夕なぎ時に焼いている藻塩のように 恋人を慕って身も恋い焦がれています
引用元:百人一首の訳をお願いします。藤原定家「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎ… – Yahoo!知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1295508652

百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは、100人の歌人の和歌を、一人につき一首ずつ選んでつくった秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ[1])とも。藤原定家が京都小倉山の山荘で揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが後世歌がるたとして広く用いられ、特に小倉百人一首(おぐら-ひゃくにんいっしゅ)として定着した。本記事では主に、この小倉百人一首について解説する。

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される[2]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
引用元:百人一首 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96

も‐しお〔‐しほ〕【藻塩】
1 海藻からとった塩。海藻を簀(す)の上に積み、いく度も潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮つめて製する。
「わくらばに問ふ人あらば須磨のうらに―たれつつわぶとこたへよ」〈古今・雑下〉
2 1をつくるためにくむ潮水。
「―くむ袖の月影おのづからよそにあかさぬすまの浦人」〈新古今・雑上〉
出典 小学館デジタル大辞泉
引用元:藻塩とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%BB%E5%A1%A9-645506