【甕通槍】かめどおしやり

松平信康の切腹を妨げず
「海老すくい」という踊りが得意
愛槍の名前は「甕通槍」
徳川四天王の筆頭
本多正純
酒井忠次(答)
板倉勝重
井伊直政
44%

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。

徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる(西三河は石川家成)。

永禄12年(1569年)末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定していたが、忠次は武田方との交渉を担当している。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げている。戦後に信長から「背に目を持つごとし」と賞賛された。

家康の厚い信任を受けていた忠次は天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世と共に弁解の使者に立てられて安土城に赴いている。この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹の通説に関しては疑問点も多く、信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では出されている。
引用元:酒井忠次 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AC%A1

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った。

信康自刃事件について
三河物語に基づいた通説
信康の切腹については幕府成立後の所謂徳川史観による三河物語が通説化している。 それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。 信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。 家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。
引用元:松平信康 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7