屈辱はぐれる、穴に墳墓

次のうち、1077年の
「カノッサの屈辱」事件の
当事者を全て選びなさい
グレゴリウス7世(答)
クレメンス5世
ハインリヒ4世(答)
ボニファティウス8世
60%

1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を恐れてローマ教皇グレゴリウス7世に屈服した事件。ローマ教皇権の最盛期の出来事とされる。

 神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世は、ローマ教皇グレゴリウス7世が世俗の権力による聖職者叙任権を否定したことに対し、帝国教会政策を維持するために反対し、グレゴリウス7世の教皇の廃位を迫った。教皇グレゴリウス7世は公会議を開催してハインリヒ4世の破門を決定した。
 ローマ教皇との叙任権闘争で攻勢をかけていたハインリヒであったが、破門が実行されると帝国内の封建諸侯に対する統制力を失うことになるので、ハインリヒ4世は守勢に回ることとなる。その窮地を脱するため、ハインリヒ4世は厳冬のアルプスを超え、1077年の正月、おりから教皇の滞在するカノッサ城で教皇に面会を求めた。グレゴリウス7世は会おうとしなかったが、カノッサ城主トスカナ伯マティルダやクリュニー修道院長ユーグのとりなしで会うこととなった。この間、ハインリヒ4世は3日間、雪の中にわずかな修道衣のみの素足で立ちつくし、やっと破門を解いてもらうことが出来た。これが「カノッサの屈辱」と言われる事件で、ローマ教皇権の強大化を示す事例とされている。
引用元:カノッサの屈辱 https://www.y-history.net/appendix/wh0601-177.html

カノッサの屈辱とアナーニ事件が混乱します。どっちが先に起こって、カノッサの屈辱では教皇と皇帝のどっちが勝って、アナーニ事件ではどっちが勝った…とにかく全部混乱します
いい覚え方がある方教えてください

「カノッサの屈辱」→「アナーニ事件」の順です。

カノアナ、とでも覚えておきましょうか。

カノッサの屈辱は教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が僧職任命権をめぐって争ったもので、教皇が皇帝が破門し、皇帝が謝罪する羽目になった事件で強硬グレゴリウス7世の勝利です。(1099年)

アナーニ事件は教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世と国内の教会支配について争ったことで教皇が捕らえられて憤死した事件です。つまりフィリップ4世の勝ちです・(1303年)
1309年からは教皇がアビニョンに幽閉される「教皇のアビニョン幽囚」の状態が始まります。
引用元:カノッサの屈辱とアナーニ事件が混乱します。どっちが先に起こって、カノ… – Yahoo!知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14178007304

アナーニ事件
1303年、フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世に退位を迫り、教皇が憤死した事件。ローマ教皇権衰退を象徴する事件であった。

教皇ボニファティウス8世の憤死

 1303年9月、フランスの強硬な反教皇派であった国王顧問兼モンペリエ大学教授のギョーム=ド=ノガレは、部下を連れてアルプスを越え、ローマ郊外のアナーニに滞在していたローマ教皇のボニファティウス8世を急襲して捕らえ、一室に軟禁して退位を迫った。しかし、教皇はその要求をはねのけた。ノガレに同行していたコロンナ家のシアッラは教皇の顔を撲り、ノガレと二人で教皇から三重冠(教皇位のシンボル)と祭服を奪った。ボニファティウス8世をフランスに連行しようとするノガレと、この場で殺害してしまおうとするコロンナが激しく口論し、その状態が二日も続く間に、教皇は駆けつけたアナーニ市民に救出されローマに戻った。しかし、教皇は1ヶ月後に急死してしまった。教皇の死因は持病の結石だったが、最後は精神錯乱状態で、アナーニの屈辱がショックであったらしい。このことをボニファティウスが悔しさで憤激したあまりに死んだので「憤死」と言われている。
 ノガレがボニファティウス8世を襲撃したことは、フィリップ4世には知らせていなかったと言われているが、結果的にフランス王フィリップ4世がローマ教皇との抗争に勝利したこととなり、教皇権の衰退を象徴する事件となった。
引用元:アナーニ事件 https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-110.html