【反転写真】中岡慎太郎

次のうち
土佐藩出身の人物を
全て選びなさい
(画像選択肢)
1伊藤博文の画像【長州藩】
2中岡慎太郎の画像(答)
3大久保利通の画像【薩摩藩】
4岩崎弥太郎の画像(答)
29%

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次の人物から連想される藩は?
(画像出題)
ヒント① 山内豊信 やまうちとよしげ
ヒント② 板垣退助
ヒント③ 岩崎弥太郎
ヒント④ 坂本龍馬
会津藩
長州藩
土佐藩(答)
薩摩藩
引用元:山内豊信(とよしげ)「土佐藩」 新選組の隊員(肖像写真)土方歳三 近藤勇「紙幣の肖像」福沢諭吉 伊藤博文 板垣退助 岩倉具視「大政奉還」山内豊信 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/2368/

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次のうち、幕末に松下村塾で
講義を行った人物はどっち?
A吉田松陰(答)
B大村益次郎
引用元:「吉田松陰」松下村塾「安政の大獄」山田浅右衛門に斬首 「梅田雲浜」大獄最初の逮捕者 https://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/10373/

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次の人物を
肖像画使われた紙幣の
金額が高い順に選びなさい
(画像選択肢)
Bの画像 福沢諭吉   10000
Aの画像 伊藤博文   1000
Dの画像 岩倉具視   500
Cの画像 板垣退助   100
引用元:松下康雄、速水優、福井俊彦、白川方明 https://seethefun.net/%E7%A4%BE%E4%BC%9A/33283/

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) – 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。
引用元:中岡慎太郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E

解説
父は大庄屋役勤仕。文久元年(1861)武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加。3年土佐勤王党が弾圧されると脱藩して長州に行き、尊皇攘夷運動の中心として活躍。坂本竜馬と協力して薩長連合締結に尽力し、慶応2年(1866)締結が実現。同年陸援隊を組織して隊長となる。以後武力討幕を目指し活動していたが、大政奉還後の3年11月坂本竜馬と共に京都で暗殺された。
引用元:中岡慎太郎 | 近代日本人の肖像 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/149.html?cat=111

坂本竜馬らと薩長同盟実現に奔走した幕末の志士、中岡慎太郎の写真のガラス原板が、富山市の個人宅で保管されていたことが20日までに分かった。調査した中岡慎太郎館(高知県北川村)によると、日本で最初に「笑顔」を写したとも言われる貴重な写真の原板という。

 原板を保管していた富山市の鹿野秀夫さん(80)は、慎太郎が下宿していた京都の書店「菊屋」経営者の五男にあたる峰吉の子孫。原板は峰吉が慎太郎から譲り受けたとみられる。峰吉の死後、富山市に移り住んだ峰吉の妻キンの遺品として代々受け継いできた。

 原板は縦約8センチ、横約10センチ。竜馬と共に暗殺される約1年前の1866年11月に京都の祇園で撮影された。笑顔の慎太郎と一緒に写っている女性らしき人物の姿はなぜか削り取られたり、塗りつぶされたりしている。
引用元:中岡慎太郎の写真原板を確認/富山の個人宅で | 全国ニュース | 四国新聞社 http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20100720000409

右手で頬杖をついて首をかしげ、こぼれるような白い歯を見せて笑っている中岡慎太郎の写真がある。幕末当時の湿式写真だと、5秒から10秒露出時間がかかるらしいが、無理な作り笑いではない。ひきこまれるような自然な笑顔である。
 その写真は、宮地佐一郎編『中岡慎太郎全集』(勁草書房)に紹介されているが、なぜか左右が反転して掲載されている。掲載写真では左手で頬杖をつく恰好になっているが、脇差に注目すれば左右が逆になっていることがわかる。河田小龍のご子孫である京都の宇高随生氏が所蔵していたのを、故宮地さんが複写を許可されたものだが、複写か全集の口絵にレイアウトするとき、反転したのであろう。
 慎太郎の隣に女性が写っているはずなのだが、黒くぬりつぶされている。(慎太郎の膝に女性の振袖の袂らしいものが、ふわっとかかっている)さて、この女性は誰だったか。祇園の芸者で、たぶん慎太郎の愛人というふうに推測されてきた。私もながい間、そう思い込んできた。
 ところがこのほど小沢健志『幕末・明治の写真』(ちくま学芸文庫)を読み、所収の写真を眺めているうちに、あっと気づいた。慎太郎の写真は京都寺町通り仏光寺下ルの「西洋伝法写真処」で撮られたものだ。撮影者は堀与兵衛。ここで撮られた写真は人物の台座に同じ市松模様の敷物が使われているので、すぐわかるのだ。その堀与兵衛は、なんと女性モデルを使っていて、被写体の侍と組合わせて写すということをやっている。慎太郎の隣の女性もモデルという可能性があるのだ。
引用元:中岡慎太郎の隣の女 – 小説の孵化場 https://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/e1a29d29d829186146c209148e80fd51

で、私のケータイにもくっついてる有名な中岡の超絶カワイイ笑顔写真だけど、この写真の原板が富山県の個人宅で保管されていたことが確認されたというニュースが、「龍馬伝」に中岡登場間近という絶妙のタイミングで飛び込んできた(笑)。

しかも!このお宅とは“あの”菊屋峰吉の御子孫の家だそうじゃないですか!
一応簡単に説明すると、峰吉とは中岡が京で下宿していた書店・菊屋の息子で、近江屋事件の夜、龍馬に頼まれ鶏肉を買いに行っていたために難を逃れた(…とされている)人物。
おそらく原版は中岡から峰吉…でなければ当時の菊屋の主人(つまり峰吉の父)に譲られた…と考えるのが自然かな。そして峰吉の死後、富山へ移り住んだ峰吉の妻とともに富山へ渡り、そこで代々大切に受け継がれていたと。うぅありがたいなあ(感涙)。

これまで書籍等で使われていたこの笑顔写真は、河田小龍の子孫の方が所有していた写真(!)を、故宮地佐一郎先生が複写させてもらったものを元にしていた(だから左右反転したバージョンも多く出回っている)ようだけど、今回出てきたのは正真正銘の“原版”、つまり間違いなくかつて中岡本人が所持していた品ということじゃないですか!

さて、周知の通りこの写真は左半分がごっそり欠落していて、ここには女性が写っていたものの中岡本人が原版からその箇所を削り取ってしまった、と言われている。
写っていた女性は中岡の愛人か?などと言われたこともあるようだけど、実はこの写真は京都出身の写真師・堀与兵衛(大坂屋与兵衛)が祇園に開いたスタジオで撮影されたもので、どうもこのお店にはオプションとして(笑)女性モデル(芸妓さんor舞妓さん?)とツーショット写真が撮れるというサービスがあったらしい。
だから欠けた左半分に写っていたのは、十中八九堀与兵衛が雇ったモデルの女性でしょう。
引用元:東京エゴイスト : あの写真の原版があったー! http://blog.livedoor.jp/egoist777/archives/51843867.html

岩崎 弥太郎[1](いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) – 明治18年(1885年)2月7日)は、日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く[2]。
引用元:岩崎弥太郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E

解説
三菱財閥の創始者。父は地下浪人。高知藩に職を得、開成館長崎出張所に勤務し貿易に従事、明治2年(1869)には同藩大阪商会に転じた。廃藩置県に際し藩の事業を引き継ぎ、九十九商会をおこし、後に社名を三菱商会、郵便汽船三菱会社へと改称した。台湾出兵の軍事輸送、西南戦争の軍事輸送を担当。さらに、鉱山・造船・金融・貿易など多方面への進出も試みた。新汽船会社共同運輸が設立されると激しい競争が続いたが、弥太郎は競争渦中の18年に病死し、その事業は弟弥之助、長男久弥に継承された。
引用元:岩崎弥太郎 | 近代日本人の肖像 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/237.html?cat=111