太田道灌【鶴千代】

次の戦国武将と、その幼名の
正しい組み合わせを選びなさい
太田道灌───鶴千代
三好長慶───千熊丸
今川義元───芳菊丸
51%

次の歴史上の人物と、その幼名の
正しい組み合わせを選びなさい
板垣退助───猪之助【いのすけ】
岩倉具視───周丸【かねまる】
吉田松陰───大次郎【だいじろう】
勝海舟───麟太郎【りんたろう】

1457年に江戸城を築いた
室町時代の武将といえば?
蓮灌条北早
田如太雲道
太田道灌(答)

江戸城と大阪城先に建てられたのは江戸城である
◯(答)
江戸城1457太田道灌
大阪城1583豊臣秀吉

太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い[1]。

以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。

幼少期

建長寺総門
永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代。『永享記』などによると鶴千代は鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校(栃木県足利市)でも学んだ。

文安3年(1446年)に元服し、資長を名乗った(初名は持資とする説もある)。享徳2年(1453年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。
引用元:太田道灌 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%81%93%E7%81%8C

戦国時代の武将。阿波(あわ)守護細川家の家臣で、細川晴元(はるもと)を畿内(きない)の支配者に押し上げた元長(もとなが)の子。幼名は千熊丸(せんくままる)。実名は初め利長(としなが)、のち範長(のりなが)。1532年(天文1)父元長が討ち死にし若年で家督を継ぐ。33年細川晴元と大坂石山本願寺の証如光教(しょうにょこうきょう)との和睦(わぼく)を仲介、34年8月には一向一揆(いっこういっき)方と連合して晴元と戦うが、同年10月には河内(かわち)の守護代木沢長政(ながまさ)の仲介で晴元に帰属する。しかし49年6月摂津江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)で細川晴元・三好政長(まさなが)の軍を破り、晴元、前将軍足利義晴(あしかがよしはる)、将軍義輝(よしてる)を近江に追い、管領細川氏を中心とした支配体制を崩壊させ、山城(やましろ)・摂津の実権を握る。52年将軍義輝と和すが53年ふたたび近江(おうみ)に追い、58年(永禄1)またふたたび義輝と和す。この間、弘治(こうじ)年間(1555~58)ごろまでに山城・摂津を中心に畿内から四国・瀬戸内海東部に及ぶ九か国に勢力を拡大した。長慶は管領制を終わらせ、室町幕府体制の新しい段階をつくった。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
引用元:三好長慶(みよし ちょうけい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6-16803

戦国大名。今川氏親(うじちか)の三男。母は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の女(むすめ)(寿桂尼(じゅけいに))。幼名は芳菊丸。最初駿河(するが)国富士郡今泉(静岡県富士市)の善徳寺の僧として梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、一時は京都建仁寺、妙心寺で修養を重ねた。1536年(天文5)4月に兄氏輝(うじてる)が早世すると異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)(良真(りょうしん))と家督を争い(花倉(はなくら)の乱)、同年6月これを倒し今川家を継ぎ、還俗(げんぞく)して義元と名のった。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
引用元:今川義元(いまがわよしもと)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83-32217