【紀州征伐】

和歌山県にあった城
紀俊連が築城
JR和歌山駅のすぐ近く
秀吉の水攻めで落城
和歌山城
太田城(答)
信貴山城
高取城
23%

日本の城がわかる事典の解説
和歌山県和歌山市太田にあった平城(ひらじろ)。戦国時代の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「太田城水攻(みずぜ)め」で有名。紀伊太田城は延徳年間(1489~92年)に紀俊連(きのとしつら)が築城し、天正年間(1573~92年)に太田源太夫(おおたげんだゆう)によって修築されたとされ、太田党の本城であった。1585年(天正13)、秀吉の紀伊侵攻に抵抗した太田党と根来・雑賀衆の残党ら合わせて約5000人が太田城に立てこもった。秀吉軍は紀伊太田城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤防を築き、水攻めを行った。籠城1ヵ月後、城主太田左近宗正ら太田一族は自刃し、開城した。現在、太田城水攻めの堤防跡が一部残っている。城内の遺構は残っていないが、現在の来迎(らいごう)寺境内が本丸跡と伝えられ、城跡碑が建っている。JR紀勢本線和歌山駅または南海電鉄和歌山市駅から徒歩5分。
引用元:紀伊太田城(きいおおたじょう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E-179876

太田城(おおたじょう)は、戦国時代に和歌山県和歌山市太田に存在した日本の城。来迎寺が太田城の本丸跡と伝えられる。

太田城は現在の来迎寺 (和歌山市)、玄通寺を中心に東西に二町半(約273m)、南北に二町(約218m)と言われているが、近年の発掘調査からはほぼ二町半の四方であった。そこに周囲に深い堀をめぐらし、塁上は土壁とし、各所には高い櫓を設け、城門は大門、南大門、西北門があり、平城であるが当時の城としては強固な城造りであったと思われている。その東にあった大門は和歌山市橋向丁の大立寺に移築されている(和歌山市指定有形文化財)。太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。現在、太田城周辺は開発によって住宅地となっていることもあり、その全貌を明らかにすることは困難な状況になっている。

沿革[編集]

太田城は延徳年間に、紀伊国造第64代紀俊連が、神領保護を目的として秋月城、三葛城、太田城を築城したと伝わっている。一説には延徳年間ではなく文明年間とも言われている。しかし、全国的に名を馳せたのは1576年(天正4年)に太田左近[1]が修築もしくは築城した太田城に対して、天正十三年(1585)三月、天下統一をめざす羽柴秀吉が自ら軍を進めた太田城水攻めである。
引用元:太田城 (紀伊国) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD)

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)である。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

概要[編集]
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。
引用元:和歌山城 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E

信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町信貴畑にあった日本の城である[1]。木沢長政・松永久秀の居城となった[2]。

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた[3]。信貴山中腹には、朝護孫子寺がある[3]。また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した[3]。
引用元:信貴山城 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E5%9F%8E

高取城 概略
高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。

本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。
引用元:高取城址 概要■高取町観光ガイド http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/siroato_outline.html

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

太田城攻防戦[編集]

この時の戦いの様子は第二次太田城の戦いも参照。
太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である[94]。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[95]ために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。
引用元:紀州征伐 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90#%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E%E6%B0%B4%E6%94%BB%E3%82%81