『神代史の新研究』白鳥庫吉

1940年に『神代史の研究』など
4冊の著書が発禁処分になった
ことで知られる歴史学者は?
美百左三真
五濃旗右吉
津田尚頭市
津田左右吉(答)
35%

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ファシズムによる思想弾圧の中で
『民族と平和』が発禁処分、
『国家の理想』が削除処分と
なった経済学者は誰?
佐野学
滝川幸辰
美濃部達吉
矢内原忠雄(答)

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1951年に南原繁の後任として
東大総長に就任した経済学者で
1937年にファシズム批判が原因で
東大教授を解任されたのは?
河合栄達太
矢内徳次吉
金濃原治雄
矢内原忠雄(答)

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著書『ファッシズム批判』などが
発禁処分になり、1939年には東大
経済学部教授をいわゆる平賀粛学
により休職となった経済学者は?
河合部達雄
矢濃栄忠太
美内徳次吉
河合栄治郎(答)

津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 – 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の歴史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究[注 1]したことで知られる。栄典は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章。

津田事件[編集]
1939年(昭和14年)に津田が『日本書紀』に於ける聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜・三井甲之らが津田に「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとして攻撃した[3]。政府は、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にした[注 3]。同年1月に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄は同年3月に「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。津田事件また津田左右吉事件ともいう。ただしこの裁判については、津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、事件の実態について研究がすすめられている[4]。
引用元:津田左右吉 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E5%90%89

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1873-1961 明治-昭和時代の歴史学者。
明治6年10月3日生まれ。白鳥庫吉(くらきち)に師事。大正7年早大教授。記・紀,中国古典などの史料批判にもとづく実証的研究をおこなう。昭和15年著書が発禁となり,出版法違反にとわれた(19年免訴)。24年文化勲章。昭和36年12月4日死去。88歳。岐阜県出身。東京専門学校(現早大)卒。本名は親文(ちかふみ)。著作に「文学に現はれたる我が国民思想の研究」「神代史の研究」など。
引用元:津田左右吉(つだそうきち)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E5%90%89-99255

白鳥庫吉(読み)しらとりくらきち
1865―1942白鳥庫吉 しらとり-くらきち

精選版 日本国語大辞典の解説
東洋史学者。文博。千葉県出身。帝国大学文科大学史学科卒。欧米留学後東京帝国大学教授、学習院教授を兼任。大正一三年(一九二四)東洋文庫の創設に尽力して理事長、研究部長となる。日本東洋史学の開拓者。著に「西域史研究」「神代史の新研究」など。慶応元~昭和一七年(一八六五‐一九四二)
引用元:白鳥庫吉(しらとりくらきち)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E5%BA%AB%E5%90%89-80864

五百籏頭 眞(いおきべ まこと、1943年〈昭和18年〉12月16日 – )は、日本の政治学者、歴史学者(日本政治外交史)。学位は法学博士(京都大学・1987年)。公立大学法人兵庫県立大学理事長、公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長、神戸大学名誉教授、防衛大学校名誉教授、熊本県立大学特別栄誉教授、文化功労者。姓の「籏」は「旗」の異体字、名の「眞」は「真」の旧字体であるため、五百籏頭 真、五百旗頭 眞、五百旗頭 真とも表記される。

広島大学政経学部助教授、広島大学法学部助教授、神戸大学法学部教授、防衛大学校長(第8代)、公立大学法人熊本県立大学理事長(第2代)などを歴任した。
引用元:五百籏頭眞 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%B1%8F%E9%A0%AD%E7%9C%9E

美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 – 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家、東京帝国大学名誉教授。戦前、和仏法律学校(現法政大学)に憲法講義を担当し、清国留学生法政速成科の憲法学の講義も担当した。法政大学通信教育学部の設立者。

天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後の1948年には勲一等旭日大綬章を受章。

妻・多美子は菊池大麓[1]の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。兄に朝鮮銀行総裁等を務めた美濃部俊吉がおり、その子である商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。同志社大学教授の浜矩子は曾姪孫[2]。
引用元:美濃部達吉 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E9%81%94%E5%90%89