山脇東洋『蔵志』【解剖場所】

正式には「三条新地牢屋敷」と
いう名前だった、江戸時代に
罪人が集められた、京都の
有名な牢獄を何という?
十角獄舎

九角獄舎
六角獄舎(答)
七角獄舎
63%


京都の六角獄舎で死刑囚の死体の
解剖をおこない、その記録を
まとめたものを『蔵志』として
刊行した江戸時代の医者は誰?
山脇東洋(答)


1759年に刊行
死刑囚の死体を観察
著書は山脇東洋
日本初の解剖書
『蔵志』(答)

六角獄舎(ろっかくごくしゃ)は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。

平安京以来の左獄が、豊臣秀吉のときに小川通御池上ル西側に移され、宝永5年(1708年)3月の京都大火の後にさらに移転し、現在の中京区六角通りに移転された。当時(刊行時期不明)の地図には「牢屋敷」とある[2]。

敷地内には十八畳敷きの切支丹牢があり、中ノ間は三間四方であった。切支丹牢は江戸にもなく稀有な存在であった[3]。

宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた[4][5]。

日本初の学術的人体解剖[編集]

宝暦4年(1754年)2月7日、医学者・山脇東洋が京都所司代であった小浜藩主・酒井忠用の許可を得て六角獄舎で日本で初めての人体解剖を行った。 この時の解剖記録・解剖図4枚を収めたのが、『蔵志』である。 多くの誤りもあったが、日本医学史上に占める意義は大きく、その後、弟子たちにより全国各地で解剖が行われることになる[5]。
引用元:六角獄舎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%8D%84%E8%88%8E

蔵志

『蔵志』(ぞうし)は、江戸時代の医学者、山脇東洋の著した、日本最初の解剖書[1]。

後藤艮山から臨床重視の古医方を学んだ東洋は、『蔵志』の刊行に先立って、人体と構造が類似すると言われていたカワウソを何匹も解剖する(当時、人体解剖が禁止されていた)など、人体の内景に長年疑問を持っていた。1754年(宝暦4年)閏2月、京都所司代の酒井忠用の許可を得て、斬首刑に処せられた屈嘉という名の刑死人を解剖、観察を行い、5年後の1759年(宝暦9年)、山脇はその成果として『蔵志』を発表した。

なお、この刑死人の解剖以降、日本中で人体解剖が行われるようになった。
引用元:蔵志 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%BF%97