海峡通行権【キュチュク=カイナルジ条約】クリミア半島領有【ヤシ条約】

次の18世紀から19世紀にかけて
ロシア帝国とオスマン帝国の
間で締結された条約を
古い順に選びなさい
キュチュク・カイナルジ条約
ヤシ条約
アドリアノープル条約
サン・ステファノ条約
ベルリン条約
34%

557WuwuqCTaTs
次の文字列を組み合わせて
世界史上に残る有名な
条約の名前にしなさい
サン───ステファノ条約
カンポ───フォルミオ条約
キュチュク───カイナルジ条約
ブレスト───リトフスク条約
カトー───カンブレジ条約
引用元:有名な条約「サン・ステファノ条約」「カンポ・フォルミオ条約」「キュチュク・カイナルジ条約」「ブレスト・リトフスク条約」「カトー・カンブレジ条約」 | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/1066/

CIMG6351
次のオスマン帝国と
ヨーロッパ諸国との戦いを
古い順に選びなさい
ニコポリスの戦い(1396年)───バヤジット1世、ハンガリー王ジギスムントに勝利
モハーチの戦い(1526年)───スレイマン1世、ハンガリー属国化
プレウェザの海戦(1538年)───地中海の制覇
レパントの海戦(1571年)───スペイン艦隊に敗北
引用元:第一次世界大戦の勢力と国「連合国」フランス・イギリス・ロシア(三国協商)・日本・アメリカ「同盟国」ブルガリア・オスマン帝国・ドイツ・オーストリア=ハンガリー 「オスマン帝国の戦い順」ニコポリスの戦い・モハーチの戦い・プレウェザの海戦・レパントの海戦 | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%E6%96%87%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/6986/

露土戦争(ろとせんそう)は、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国の戦争である。

露土戦争 (1568年-1570年)
ロシアの勝利。コンスタンティノープル条約で講和。オスマン帝国側資料では「アストラハン遠征」(トルコ語: Astrahan Seferi)と呼ばれる。
露土戦争 (1676年-1681年)
引き分け。バフチサライ条約 (1681年)で講和し、ロシアによる左岸ウクライナの所有及びオスマンによる右岸ウクライナの所有を認め合った。
露土戦争 (1686年-1700年)
ロシアの勝利。実質的には大トルコ戦争のアゾフ戦線。コンスタンティノープル条約で講和。
露土戦争 (1710年-1711年)
オスマン帝国の勝利。プルト条約で講和。通常、プルート川の戦いと呼ばれ、大北方戦争の戦闘の一つ。
露土戦争 (1735年-1739年)
引き分け。オーストリアもロシア側に立ち参戦。通常、オーストリア・ロシア・トルコ戦争と呼ばれる。ニシュ条約とベオグラード条約で講和。
露土戦争 (1768年-1774年)
ロシアの勝利。キュチュク・カイナルジ条約で講和。
露土戦争 (1787年-1791年)
ロシアの勝利。ヤシ条約(ヤッシー条約)で講和。
露土戦争 (1806年-1812年)
ロシアの勝利。ブカレスト条約で講和。
露土戦争 (1828年-1829年)
ロシアの勝利。アドリアノープル条約(エディルネ条約)で講和。ギリシャ独立戦争から派生した。
露土戦争 (1853年-1856年)
通常、クリミア戦争と呼ばれる。英仏の支援を受けたオスマン帝国の勝利。パリ条約 (1856年)で講和。
露土戦争 (1877年-1878年)
ロシアの勝利。バルカン諸国が独立を回復。サン・ステファノ条約で講和後、ベルリン条約で変更。
露土戦争(英語版) (1914年-1918年)
第一次世界大戦のカフカース戦線のこと。第一次世界大戦#カフカース戦線を参照。パリ講和会議ではヴェルサイユ条約が締結されただけでなく、多くの条約が結ばれたが、特にロシア内戦が勃発したことでロシア問題が生じ、イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対していたにもかかわらずウィンストン・チャーチルは「ロシア問題に関する連合国委員会」(Allied Council for Russian Affairs)の設立を提案したが、アメリカ合衆国の反対で設立されずに終わった。この間に積極的にシベリア出兵を行なってチャーチルの軍事干渉に同調した日本は、アメリカやイギリスの支持を失うことになった。
引用元:露土戦争 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%9C%9F%E6%88%A6%E4%BA%89

エカチェリーナ2世の南下政策

 その後、エカチェリーナ2世のときに再び南下政策が活発化し、オスマン帝国への侵攻が再開された。
第1次ロシア=トルコ戦争 1768年にロシア軍が、クリミア半島、バルカンに陸軍を進め、黒海では海軍がオスマン海軍を破る。1774年、キュチュク=カイナルジャ条約でダーダネルス=ボスフォラス海峡(両海峡)の商船の航行権などを獲得。ロシアのクリム=ハン国の保護権を認められた。しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアは、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国領に移り、救援を求めた。

第2次ロシア=トルコ戦争 1787年、オスマン帝国はクリミア=タタール人の要請を入れて、ロシアにクリミア半島と黒海北岸の軍隊の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して開戦となった。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を、オーストリアがロシアを支持したために、国際問題化した。ロシアとオーストリアは共に出兵し、特にロシア陸軍はオスマン帝国領内に深く進攻し、イスタンブル(コンスタンティノープル)に迫まった。1792年、イギリス、スウェーデンが手を引き、オスマン帝国は孤立したため講和に応じ、ヤッシーの和約で、オスマン帝国がロシアのクリミア半島領有を認めた。このクリミア半島併合は、ポーランド分割とともにエカチェリーナ2世の領土拡張の成功となった。
引用元:ロシア=トルコ戦争 https://www.y-history.net/appendix/wh1001-153.html

南下政策を進めたロシアが、エカチェリーナ2世の1774年、第1次ロシア=トルコ戦争の講和条約としてオスマン帝国から、ボスフォラス=ダーダネルス海峡両海峡通行権などを獲得した。

 キュチュク=カイナルジ Küçük Kaynarca は現在のブルガリアに属するドナウ川河口の地名でトルコ語。キュチュクはクチュク、カイナルジはカイナルジャとも表記する。ロシアは1696年のピョートル大帝のアゾフ海進出以来、南下政策を強めて、黒海方面への進出を進めていたが、エカチェリーナ2世は1768年にオスマン帝国に戦争を仕掛け(第1次ロシア=トルコ戦争)、戦いを有利に進めて1774年、ブルガリアのキュチュク=カイナルジでロシアとオスマン帝国(トルコ)間にこの条約が締結された。
引用元:キュチュク=カイナルジ条約 https://www.y-history.net/appendix/wh1301-012.html

エカテリーナ2世の時代,1787~92年の露土戦争を終結させた講和条約。1792年1月9日モルドバ公国の首都ヤシにおいて調印。この条約によりロシアはオチャコフの要塞とドネストル川までの黒海沿岸を獲得するとともに,クリミア半島の併合をオスマン帝国に承認させて,長年の紛争に基本的解決をもたらした。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
引用元:ヤシ条約(ヤシじょうやく)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%A4%E3%82%B7%E6%9D%A1%E7%B4%84-1212296

アドリアノープル条約(アドリアノープルじょうやく、英語: Treaty of Adrianople)、またはエディルネ条約(エディルネじょうやく、英語: Treaty of Edirne)は、1828年から1829年にかけての露土戦争の講和条約。1829年9月14日、ロシア帝国代表アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ伯爵とオスマン帝国代表アブデュルカディル・ベイ(トルコ語版)の間で締結された[2]。

アドリアノープルにより、オスマン帝国はセルビア公国の自治を再確認、ギリシャの自治を承認、莫大な賠償金をロシアに支払うまでロシアがモルダヴィアとワラキアを占領することに同意した。しかし、後のウンキャル・スケレッシ条約により、賠償金は大きく軽減された[4]。条約はオスマン帝国とワラキアの国境をドナウ川の谷線(英語版)に定め、トゥルヌ、ジュルジュ、ブライラのラヤ(英語版)をワラキアに割譲した[5][6]。
引用元:アドリアノープル条約 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84

1878年、露土戦争の講和条約としてロシアとオスマン帝国間で締結された。ロシアのバルカン半島進出を警戒するイギリス・オーストリアが反発し、ドイツのビスマルクが調停してベルリン会議が開催された結果、大幅に修正された。

 1878年3月、露土戦争の講和会議がイスタンブル近郊で開催され、締結された条約。勝利したロシア及びスラヴ諸民族は、オスマン帝国から大きな領土的収穫を得ることになった。その内容は次のようなものであったが、これらは結局は認められなかった。
ロシアは黒海沿岸に領地を拡大した(ベッサラビアをモルダヴィアから奪回)。
セルビア・モンテネグロ・ルーマニアのオスマン帝国からの独立。
ボスニアとヘルツェゴヴィナでは改革の実施。
ブルガリア公国はオスマン帝国の宗主権のもとで自治公国となる。
引用元:サン=ステファノ条約 https://www.y-history.net/appendix/wh1202-031.html

1878年、東方問題に関するベルリン会議でビスマルクの調停によって成立した条約。バルカン半島でのロシアの侵出を抑え、イギリス・オーストリアに有利な調停となった。

 1878年のベルリン会議の結果、「東方問題」の最終的な解決として、ドイツ帝国のビスマルクの調停によって成立した条約。これによって露土戦争の結果としてロシアがサン=ステファノ条約で獲得した領土は大幅に削減された。
引用元:ベルリン条約 https://www.y-history.net/appendix/wh1202-138.html