屋島大臣

1181年に平清盛が亡くなると
その後を継いだ清盛の三男で
平家が滅亡した壇ノ浦の戦い
では総大将を務めたのは誰?
平知盛

平維盛
平宗盛(答)
平重盛
27%

平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院は同母妹である。官位は従一位行内大臣。通称は屋島大臣など。

屋島・壇ノ浦の戦い[編集]
一ノ谷の戦いで陸上兵力の大部分を失ったことで、平氏は屋島・彦島の海上基地を生命線としてひたすら防御を固めた。9月に源範頼軍が西国に侵攻すると平氏は陸上戦闘を回避し、水軍により断続的な攻撃を行うことで戦局を打開しようとする。範頼軍は長門国に達したものの水軍力の不足から彦島を攻略できず、兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥った。元暦2年(1185年)正月8日には、源義経が後白河法皇に範頼軍敗退の恐れもあると奏上するなど[68]、状況は平氏にとって有利に展開していた。

しかし、直後の2月に平氏の本拠地・屋島は背後から義経軍の奇襲を受ける。屋島の防備は海上に向けられ陸上からの攻撃は想定しておらず、折りしも田口教能率いる平氏軍の主力は伊予国の河野通信討伐のため不在であり、防備は手薄だった。屋島の内裏は炎上し、狼狽した宗盛は海上に逃れる。海上退避は教能が戻るまでの時間稼ぎだった可能性もあるが、教能は戦わずして義経の軍門に下り、平氏は本拠地だけでなく瀬戸内海の制海権も失うことになった。時を同じくして九州に渡海した範頼軍に原田種直が撃破され(葦屋浦の戦い)、平氏は完全に包囲される形となった。

平氏は彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだが、3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。知盛・経盛・教盛ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜となった。『愚管抄』は「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ(宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになった)」とするが、『平家物語』は「西国にていかにもなるべし身の、生きながら捕らわれて、京鎌倉恥をさらすも、あの右衛門督(清宗)ゆゑなり(西国で死ぬはずだった身が、生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督のためだった)」という宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる原因だったとしている。

人物[編集]
『平家物語』での宗盛は優れた人物である兄の重盛との対比として、愚鈍な上に傲慢な性格で、思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物とされている。

『吾妻鏡』によると源頼朝は壇ノ浦の戦いの直前、弟の範頼に宛てた書状で、「内府は極めて臆病におはせる人なれば、自害などはよもせられじ」と記している。鎌倉に護送された際は、勧められた食事もとらずに泣いてばかりいて、頼朝との対面では弁明もできずひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。『玉葉』によれば、清盛没後に、宗盛が大食らいのため腹の病になった噂があったり、安徳天皇の大嘗会御禊行幸の儀式で口取りが引く馬から二度も落馬するなど、武家の棟梁としてはあるまじき失態を見せている。『愚管抄』には「宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになり生け捕られた」とある。『玉葉』養和2年3月条には「父は遺恨があれば、ただちに仕返しをした。私は事を荒立てないよう知らぬふりをする」という宗盛の人物像を象徴するような言葉がある。

一方、妻が出産で亡くなった時には官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺言で遺児である副将(能宗)を乳母に預けず自分の男手で育てた事や、『平家物語』では処刑の直前の最期の言葉が「右衛門督(清宗)もすでにか」と我が子を思うものであるなど、妻子への情愛深い家庭人であった事が伺える。

宗盛の能力についても、武勇はともかく、兵乱の時代を終え王権と結合して政治的に安定した平家政権において求められた、公家社会における実務能力の高い人物として再評価する考えもある[73]。
引用元:平宗盛 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B

平宗盛
たいらのむねもり

平安時代末期の武将、政治家。平清盛の子で、最後の棟梁でもある。

概要
久安3年(1147年)に平清盛の正妻・平時子の第一子として誕生。長兄の平重盛とは腹違いの兄弟である。父や兄よりも早く任官するなど貴族官吏として出世をするが、当時最高の名門平家の三男であったことが影響していると言われる。

本来ならば長男重盛の補佐をしていれば良かったはずの宗盛であったが、重盛の逝去、後白河天皇と父清盛の対立が彼の運命を暗転させていく。以仁王と源頼政の謀反を鎮圧後に清盛が熱病で死去し、源頼朝率いる源氏の挙兵もあって平家は弱体化の一途をたどった。

宗盛率いる平家は攻めて来た源氏によって都を追われ、西国に落ち延びて行くが勢力を回復する事はままならず、ついに壇ノ浦の戦いを迎えてしまう。弟の平知盛をはじめ、一門が入水して死んでいく中、泳ぎ回っていた彼は捕まってしまう。水泳が達者だった上に息子を気遣っていたためと言われる。

捕まった宗盛は都大路を引きまわされた挙げ句、源義経によって鎌倉に送られて頼朝の裁きを受けた。元暦2年6月21日(1185年7月19日)、京都に送り返される途中の宗盛は近江国篠原宿で斬首され、落命した。享年は39歳。
引用元:平宗盛 (たいらのむねもり)とは【ピクシブ百科事典】 https://dic.pixiv.net/a/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B

[生]保延4(1138)
[没]治承3(1179).7.29.
平安時代末期の武将。清盛の長子。 12歳で蔵人となって以来,保元・平治の乱で父清盛に従って活躍。長寛1 (1163) 年従三位に叙される。平氏政権の確立とともに官位が累進し,仁安2 (67) 年従二位権大納言,翌年病により官を辞したが,承安1 (71) 年権大納言に復し,治承1 (77) 年正二位内大臣左近衛大将。小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。鹿ヶ谷の陰謀事件で (→鹿ヶ谷事件 ) ,後白河法皇を幽閉しようとする父をいさめて,法皇の罪を不問とした。同3年病のため職を辞し,入道した。『平家物語』には,道理をわきまえた人物として描かれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
引用元:平重盛(たいらのしげもり)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B-92215

平維盛
たいらのこれもり

平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。

平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。

治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺したとされている。
引用元:平維盛 (たいらのこれもり)とは【ピクシブ百科事典】 https://dic.pixiv.net/a/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B

平知盛(1152~1185)とは、平安時代末期に活躍した武将である。

平清盛と平時子の間に生まれた子で清盛の四男。通称新中納言。平家きっての武闘派であり、他に候補がいないために事実上のラスボスとなる人物である。

1159年にわずか8歳で蔵人となり、従五位に列せられ、1160年から8年にわたって武蔵守、1161年には左兵衛佐、その後春宮大進、中務権大輔、左近衛中将を歴任し、1177年には26歳にして従三位となり公卿となった。その後も1178年には丹波権守、1179年には春宮権大夫、右兵衛督から左兵衛督になり、源頼朝が挙兵した1180年には新院別当で正三位、1182年には従二位権中納言にまで至っていた。

このように平時子を母とする一門の主流に属し、清盛の最愛の息子であったともいわれる平知盛は、公家としてかなり順調な昇進をしていった一方で、武士としても能力が高かった。しかし『平家物語』前半で語られる彼の武勇は極めて強調されたものであり、兄・平宗盛の柔弱さとの文学的対比もままある(参戦してないはずの以仁王の挙兵に総大将を務める、都落ちへの反対など)。

そんな彼は『平家物語』後半では平家全体の運命を見渡すキーパーソンを演じ、息子・平知章を見殺しにしたことで露呈する人間としての弱さや、壇ノ浦の戦いでの田口成良の裏切りを見通していた姿が描かれるのである。こうして最後は壇ノ浦の戦いで戦況を見通し、武勇優れる平教経に負けを認め無用な殺生を控えるように諫め、一門の入水を見届けた後「見るべき程の事は見つ」と口にして、乳母子の平家長とともに自害したのであった。

と、平清盛の息子であること、柔弱極まりない(と物語では描かれる)平家の中では武の要であったこと、最後の最後まで生き残っていたこと、などから平家のラスボスとして扱われ、ドラマなどでは平教経と源義経との八艘飛びのエピソードが彼のものにされていることもみられる。
引用元:平知盛とは (タイラノトモモリとは) [単語記事] – ニコニコ大百科 https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E7%9B%9B