藤原実方朝臣【51】かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

次の『百人一首』に
収められた和歌の
最初の部分とその作者の
正しい組み合わせを選びなさい
かくとだにえやは伊吹の───藤原実方朝臣
君がため惜しからざりし───藤原義孝
誰をかも知る人にせむ───藤原興風
契りおきしさせもが露を───藤原基俊
長らへばまたこのごろや───藤原清輔朝臣
24%

ヨモギの別名です
指燃草
さしもぐさ(答)
49%

引用元:【蓬・艾、餅草】 | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%E7%90%86%E7%B3%BB%E5%AD%A6%E5%95%8F/55315/

051 藤原実方朝臣
原文
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを
(かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもひを)
現代訳
これほどまで、あなたを思っているということさえ打ち明けることができずにいるのですから、ましてや伊吹山のさしも草が燃えるように、私の思いもこんなに激しく燃えているとは、あなたは知らないことでしょう。
引用元:百人一首/一覧 https://hyakunin.stardust31.com/gendaiyaku-itiran.html

藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。

人物[編集]
藤原公任・源重之・藤原道信等と親しかった。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる事もある。

『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に64首が入集[9]。家集に『実方朝臣集』がある。

小倉百人一首
51番 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(『後拾遺和歌集』恋一612)
引用元:藤原実方 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%96%B9

【今回の歌】

藤原義孝(50番)『後拾遺集』恋二・669

君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな

ゴールデンウィーク、皆さんは家族とどこかへ出かけられるでしょうか。中には恋人と海外へ行くとか、遠距離恋愛の相手に会いに行く、なんてうらやましい人もいることでしょう。想い人との逢瀬は本当に幸せなもの。今回の歌は、前回に続いて、熱愛した人とはじめて想いを遂げた後の歌です。

●現代語訳
あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、逢瀬を遂げた今となっては、(あなたと逢うために)できるだけ長くありたいと思うようになりました。
引用元:ちょっと差がつく百人一首講座 | 小倉山荘 https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/050.html

954-974 平安時代中期の官吏,歌人。
天暦(てんりゃく)8年生まれ。藤原伊尹(これただ)の4男。母は恵子女王。能書で有名な行成の父。右近衛(うこんえの)少将。中古三十六歌仙のひとりで,歌は「拾遺和歌集」などにはいっている。天延2年9月16日,流行病で朝に死んだ兄挙賢(たかかた)につづき,夕方に死去。21歳。兄の前少将にたいして後少将とよばれた。仏道に帰依(きえ)した説話がおおい。
【格言など】君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(「小倉百人一首」)
出典 講談社デジタル版
引用元:藤原義孝(ふじわらの よしたか)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E5%AD%9D-1106582

034 藤原興風
原文
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
(たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに)
現代訳
(友達は次々と亡くなってしまったが) これから誰を友とすればいいのだろう。馴染みあるこの高砂の松でさえ、昔からの友ではないのだから。
引用元:百人一首/現代語訳 https://hyakunin.stardust31.com/yaku-itiran.html

藤原 興風(ふじわら の おきかぜ)は、平安時代前期の歌人・官人。藤原京家、参議・藤原浜成の曾孫。相模掾・藤原道成の子。官位は正六位上・下総大掾。三十六歌仙の一人。

経歴[編集]
昌泰3年(900年)父・道成と二代続けて相模掾に任ぜられる。治部少丞を挟んで、延喜4年(904年)上野権大掾、延喜14年(914年)上総権大掾と、主に地方官を歴任し、位階は正六位上に至る。

官位は低かったが『古今和歌集』の時代における代表的な歌人で、「寛平后宮歌合」「亭子院歌合」等の歌合への参加も多く見られる。『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首が入集[1]。家集に『興風集』がある。管弦にも秀でていたという。

小倉百人一首
34番 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに(『古今和歌集』雑上909)
引用元:藤原興風 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%88%88%E9%A2%A8

没年:康治1.1.16(1142.2.13)
生年:康平3(1060)
平安時代後期の歌人。父は右大臣俊家。母は高階順業の娘。従五位上左衛門佐。長治2(1105)年『堀河百首』,元永1(1118)年『内大臣家歌合』などに出詠。歌合の判者をたびたび務め,私選集『新撰朗詠集』を編纂するなど,源俊頼と共に歌壇の指導者的存在であった。晩年の弟子に,藤原俊成がいる。保延4(1138)年に出家。法名は覚舜。代表作は百人一首に採られた「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も往ぬめり」。家集に『基俊集』がある。『本朝無題詩』に17首の漢詩を残す漢詩人でもあった。<参考文献>橋本不美男『院政期の歌壇史研究』
(加藤睦)

出典 朝日日本歴史人物事典
引用元:藤原基俊(ふじわらのもととし)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E4%BF%8A-124707

藤原 清輔(ふじわら の きよすけ)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。六条藤家3代。

人物[編集]
多くの著作を残し六条藤家歌学を確立しただけでなく、平安時代の歌学の大成者とされる。公的な場で歌を詠むには古い歌集をみるべきだといって『万葉集』を繰り返し読んだという。歌人として認められてからは多くの歌合の判者を務め、歌壇を牽引する存在となった。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首が入集[3]。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書には、『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。

小倉百人一首
84番 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき (『新古今和歌集』雑1843)
引用元:藤原清輔 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%BC%94