北朝【持明院統】

三種の神器がないまま即位
正平一統後は奈良で軟禁
北朝第2代天皇
即位後に南北朝が成立
光厳天皇
崇光天皇
後亀山天皇
光明天皇(答)
43%

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次の鎌倉時代後期の天皇を
皇室の系統ごとに
グループ分けしなさい
【大覚寺統】後宇多天皇、亀山天皇
【持明院統】花園天皇

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【大覚寺統】後宇多天皇、後醍醐天皇
【持明院統】伏見天皇、後深草天皇、光厳天皇

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南北朝時代の1351年に
一時期だけ南北朝が南朝に
統一されたことを何という?
迭統両合南
平一正朝立
正平一統(答)
しょうへいいっとう

文字パネル
鎌倉時代後期に大覚寺統と
持明院統から交互に皇位に
ついたことを何という?
両統迭立(答)
りょうとうてつりつ
引用元:「両統迭立」大覚寺統「亀山天皇」「後宇多天皇」持明院統「後深草天皇」「伏見天皇」 「正平一統」1351一時期南朝に統一 | 【QMA復習】 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/20661/

光明天皇(こうみょうてんのう、1322年1月11日〈元亨元年12月23日〉- 1380年7月26日〈康暦2年/天授6年6月24日〉)は、日本の北朝第2代天皇(在位:1336年9月20日〈建武3年/延元元年8月15日〉- 1348年11月18日〈貞和4年/正平3年10月27日〉)。諱は豊仁(ゆたひと)。

その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。

生涯[編集]
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武3年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後醍醐天皇の代わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳上皇の院宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。三種の神器がない状況での即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものであり、この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったのである。兄の光厳上皇による院政が行われた。

後醍醐天皇は恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った。そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点はクリアされた。が、後醍醐天皇は12月21日に吉野に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。この時、後醍醐天皇は北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した(この段階で三種の神器が3組も存在したことになるが、状況的にこの時の吉野潜行に三種の神器を帯同していく猶予はなかったと考えられ、実際に後の正平の一統で後村上天皇は北朝の神器を奪還している)。また、北陸においてもう一人の天皇として在位していた恒良親王は建武5年4月13日(1338年5月3日)に薨去したので、この段階までは三人の天皇が並立していたともいえる。もし当時の人々にとって恒良親王の所持していた三種の神器が本物と考えられていたとしたら、壇ノ浦の戦いにおいて源義経が三種の神器の確保を厳命されていたように、何かしら言及された史料がありそうだがそのような記述は歴史書にみられず、恒良親王の神器は親王の捕縛に伴って北朝軍の司令官斯波高経の手を経由して光明天皇に渡ったのか、金ヶ崎城の落城とともにどこかで消失したのか等、行方が不詳である。
引用元:光明天皇 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

光明天皇(読み)こうみょうてんのう

後伏見天皇皇子。北朝第2代。足利尊氏の擁立で,1336年に即位。後醍醐天皇もこの即位をいったんは認めたものの,大和吉野へ潜幸して自らの皇位の正当性を主張,以後50余年の南北朝の対立が現出される。1348年崇光(すこう)天皇に譲位して院政を行うが,同天皇の廃位で出家。一時南朝により大和賀名生(あのう)・河内金剛寺に幽閉された。→南北朝時代
→関連項目湊川の戦
出典 株式会社平凡社
引用元:光明天皇(こうみょうてんのう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87-16348