【舞鶴城とも】

戦国武将・上杉謙信が幼少期から
青年期を過ごした、新潟県長岡市
にあった城で、謙信の初陣の場
ともなったのは◯◯城?
野田
高尾
栃島
栃尾(答)
59%

栃尾城跡(謙信公旗揚げの地)
戦国の名将、上杉謙信公は栃尾市街地の西方に位置する鶴城山(227m)にある山城に在城し青年期を過ごしました。
 群雄割拠の戦国時代、越後の虎と呼ばれて諸公に恐れられた名将上杉謙信公は多感な青年期を栃尾で過ごし、旗揚げをしました。
 謙信公はやがて越後の国主となり、関東管領へと覇権を広げてゆきます。
 栃尾城は南北朝時代の創始といわれ、険しい自然を利用し、空壕(からぼり)で仕切った本丸以下の諸曲輪(くるわ)を一列に並べ、東側中腹には広大な千人溜を備えるという雄渾な縄張りや本丸を固める鉢巻石垣、山腹まで掘通した大規模な縦空壕など戦国時代の山城遺構の好例です。
引用元:栃尾城跡(謙信公旗揚げの地) https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/shiro/tochiojyoato.html

栃尾城(とちおじょう)は、新潟県長岡市栃尾地域に存在した日本の城。別名・舞鶴城、大野城とも。標高228mの鶴城山に築かれた戦国時代の典型的な山城である。新潟県指定史跡。

概要[編集]
創設年代は不明だが、室町時代初期~中期と伝えられる。馬蹄型の郭を構成し堅城として有名で、上杉氏の会津転封後も代わって越後に入封した堀秀治の家臣・神子田政友が1万石で入城しているが、1610年に堀氏の没落に伴い廃城となっている。

栃尾城跡のふもとにある秋葉公園には上杉謙信の銅像が建立されている
本庄氏の城であり上杉謙信が幼年~青年期を過ごし、謙信の父・長尾為景が死去した後跡目争いが起こった時の初陣の地として有名。

その後、謙信死後の御館の乱で城主本庄秀綱は上杉景虎方につき、三条城の神余親綱らと共に上杉景勝に抵抗するが、天正8年(1580年)4月22日に栃尾城は落城。秀綱は会津方面へ逃亡した。

土橋、複数の堀切、石積、郭跡や竪堀の遺構などが残り、主要部の遺構はほぼ完存している。山頂からは視界が開け、栃尾盆地が一望できる。
引用元:栃尾城 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E

栃尾
とちお
新潟県中部、信濃(しなの)川支流の刈谷田(かりやた)川上流盆地にあった旧市名(栃尾市)。現在は長岡(ながおか)市の東部を占める地域。1954年(昭和29)栃尾町と下塩谷(しもしおだに)、上塩谷、東谷、荷頃(にごろ)の4村が合併して市制施行、栃尾市となる。1955年入東谷、西谷の2村、1956年に中野俣(なかのまた)、半蔵金(はんぞうがね)の2村を編入して栃尾盆地全域が市域となる。2006年(平成18)長岡市に編入。国道290号、351号が通り、長岡旧市街、見附(みつけ)市からバス交通の便がある。県下有数の豪雪地で、冬季は交通の途絶する所もある。旧中心市街栃尾は盆地を三分する三支谷の合流点にあたり、中世末上杉謙信(うえすぎけんしん)が少年時代を過ごした栃尾城(舞鶴(まいづる)城)の城下町として発生し、近世は長岡藩栃尾組の代官町となり、栃尾紬(つむぎ)の銘柄産地として知られた。見附市とともに全国有数の合繊織物産地として、テトロン、アクリル、ナイロン服地などの織物工場が立地する。東境にそびえる守門岳(すもんだけ)は越後三山只見(えちごさんざんただみ)国定公園に入り、春山スキーの好適地をなす。刈谷田川ダム、道院(どういん)高原、秋葉公園などの観光地がある。[山崎久雄]
『『栃尾市史』全6巻(1977~1981・栃尾市)』
引用元:栃尾(とちお)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A0%83%E5%B0%BE-105275