【庚桑楚篇】趎願聞衛生之經而已矣

長崎生まれの医師
蘭医ポンペに師事
岩倉使節団の一員として渡欧
「衛生」という言葉を考案
佐藤進
高木兼寛
長與専齋(答)
三宅秀
45%

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次の都市を
1871年に横浜を出発した
岩倉使節団が訪れた順に
選びなさい
サンフランシスコ
シカゴ
ワシントン
ロンドン
パリ
ベルリン
ペテルブルグ
ローマ引用元:ジャレコ『シティコネクション』ステージ順「アメリカ」「フランス」「インド」「日本」NYからTYO航路『シスコヒート』『ロックントレッド』 岩倉使節団の航路「サンフランシスコ」「パリ」「ローマ」横浜からアメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・イタリアへ | 【QMA復習】わかればいいのに https://seethefun.net/%e3%82%a2%e3%83%8b%e3%83%a1%ef%bc%86%e3%82%b2%e3%83%bc%e3%83%a0/14533/

長与専斎 ながよ せんさい
(1838〜1902)
職業・身分 医師・薬剤師等
出身地(現在) 長崎県
生没年月日 天保9年8月28日〜明治35年9月8日
(1838年10月16日〜1902年9月8日)
号・別称等 松香(しょうこう)
解説
医師・衛生行政家。父は肥前大村藩医。安政元年(1854)大坂の適塾に入門し、のち塾頭となる。万延元年(1860)長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学んだ。明治4年(1871)上京し、文部少丞となり岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西欧の医学教育を視察、調査。6年に帰国後、文部省医務局長。8年内務省衛生局の初代局長となる。司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入など、わが国衛生行政の基礎を築いた。元老院議官、貴族院議員などを歴任。回想録『松香私志』(1902)がある。
引用元:長与専斎 | 近代日本人の肖像 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/306.html

 長与専斎は Hygiene の原語を健康もしくは保健と露骨に直訳しても面白くないので、荘子の庚桑楚篇(こうそうそへん)にある「衛生の経」から字面高雅で音の響も良い衛生という言葉をみつけ、これを健康保護の事務に適用することにし衛生局とした(私香私志)。先の胡蝶の夢によると、欧米視察から帰国後オランダ語のgezondheidsleer(衛生学)の訳語に困っていたところ、薬学と化学に精通し歌学と漢学に素養の深かった明石博高(1839-1910)に出会い、彼が衛生という言葉を造語し、専斎は喜んでこの言葉と内容を広めた、とある。ちなみに Hygiene は健康の女神 Hygieia から Galenus (130-200年)が命名している。  長与専斎は敵塾で洪庵の予防医学の重要性や長崎養生所でのポンペの衛生行政の考えや実地に大きな影響を受けたと思われる。
引用元:長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~第三章 近代薬学の定着期(4.医療・衛生行政制度の創始者:長与専斎) http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp3/chapter3-4.html

明石博高 あかし-ひろあきら

1839-1910 幕末-明治時代の医師,殖産家。
天保(てんぽう)10年10月4日生まれ。慶応2年生地京都に煉真舎を組織し,理化学,薬学を研究。明治元年の御所内病院開設のほか,養蚕場,牧畜場,学校,授産所などの創設につくした。明治43年6月20日死去。72歳。名は博人。号は静瀾。著作に「日本薬泉考」「化学撮要」など。
引用元:明石博高(あかし ひろあきら)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%8D%9A%E9%AB%98-1048800

「衛生」に関する管見[エッセイ]
No.4928 (2018年10月06日発行) P.66

佐藤 裕 (国東市民病院)

登録日: 2018-10-07

すなわち、長與の自伝『松香私志』の中に「西欧諸国視察中ドイツを訪れた際、よく“Gesundheitpflege”というような言葉を耳にした。……。西欧諸国には国民の健康保護を担当する行政組織があり、これは行政が国民への危害を取り除き国家の福祉を全うする仕組みのようである。……。また、人間生活の利害にかかわるあらゆるものを国が取り扱う“Sanitats-Wesen”とか“Öffentliche Hygiene”と呼ばれる行政上の制度であるが、今の日本にはこういう制度がない。……。そこで日本にそういう制度を立ち上げ、根付かせようと決心した」とある。1871(明治4)年に岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダにおいて医学や医療行政(今日の衛生行政)の実情を視察した長與は、その当時ドイツで行われていた“Öffentliche Gesundheitpflege”やオランダの“gezundheidsleer”という国家施策を目の当たりにして、その施策の持つ重要性を感じ取ったことから、その概念を端的に表す言葉を「衛生」と置き換えて、日本に移入したのである。そして、文部省所管の医務局が内務省に移管されたことを受けて、件の長與が初代衛生局長に就任した。

なお、「衛生」という言葉に関しては、明治初期の医療人でもあり京都の産業界で活躍した明石博高(1839~1910)が、オランダ語の“gezundheidsleer”という言葉の日本語訳として造語したとする異説もあるが、ドイツ語の“Öffentliche Gesundheitpflege”は逐語訳すると「Öffentliche(公的な) Gesundheit(健康)pflege (世話ないし育成)」であり、意訳すると「健康の育成(維持・向上・増進)を図る公共的な施策」とでも言うべきで、どちらかというと、今日「公衆衛生」と訳されている“public health”に相当するようである。

しかし、歴史的にみると、件の長與に先だって「衛生」という言葉を使っていた人物がいた。もっとも「えいせい」ではなく「えせう」と読ませているが、その人物が江戸時代中期、豊後の国杵築藩領の国東半島に生まれた哲学者・天文学者兼儒医の三浦梅園(1723~1789)である。この梅園が1778(安永7)年に著した『養生訓』の中で「衛生」という言葉を用いている。『養生訓』と言えば、筑前黒田藩の貝原益軒(1630〜1714)のものが有名で、日常生活を送る上で「養生(生を養うこと)に役立つ方法」をこと細かに記述しているが、その中には件の「衛生」という言葉は一言も出てこないのである。

一方、梅園は『養生訓』の中で今日とほぼ同様の「生(命)を衛る:『健康を守り、養い、育てる』ないし『健康を保持し、病気を予防する』」という意味合いで、「衛生」という言葉を使っている。その代表的文言が「つねに衛生の道をしり、身を壮健にたもたずんば、……」や、「衛生保養の道、いつとても怠るにはあらざれども……」である(図2)。中国から渡来した数多くの古典籍を読破していた梅園が遺した蔵書の中には老子や荘子も含まれており、梅園が荘子の『庚桑楚篇』にある「衛生」という言葉を正しく理解して、儒医にとしての立場から自著に採り入れて使ったであろうことは想像に難くない。

なお、各医学会のホームページを閲覧すると、1947年に設立された「日本公衆衛生学会(Japanese Society of Public Health)」は、長與と同じように「衛生(学)」という言葉は荘子の『庚桑楚篇』にある「衛生の経」に由来するとしているが、意外なことに「日本衛生学会(The Japanese Society for Hygiene)」のほうは、鎌倉時代の1289年に丹波行長が撰述した『衛生秘要抄』の「衛生」に由来するとしている。言うまでもなく、「養生(の法)」の背景には「無為自然」を重視する老荘思想があるので、丹波行長も荘子の中の「衛生」が念頭にあったものと思われる。なお、この丹波行長という人物は代々典薬頭・鍼博士(宮廷医官ないし侍医)として朝廷に仕えた丹波氏の出で、行長が撰述した『衛生秘要抄』は、1302年に僧医梶原性全(1266~1337)が仮名まじり文で著した『頓医抄』とともに、日本において最も古い部類の予防医学書、すなわち「生(命)を衛(る)医学書」として認知されている。さらに、この丹波氏は渡来した唐代の漢籍医書を参考にその当時の医学知識全般を網羅した『医心方(全30巻)』を編集して、平安時代の984年に朝廷に献上した功績により典薬頭に採りたてられた丹波康頼(912~995)を始祖とする医家であり、その子孫から多くの名医を輩出していることを付記しておく。
引用元:「衛生」に関する管見[エッセイ]|Web医事新報|日本医事新報社 https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=10810

長与専斎と「衛生」
梅渓昇
この点を明確にして次の「衛生」なることばの来歴説明を彼の自伝に聞くことにしよう。
「さきに医制を起草したさい、原語を直訳して〈健康〉もしくは〈保健〉などの文字を用いんとしたが、露骨で面白からず、別に妥当な語がないものかと思いめぐらしたとき、ふと『荘子』の「庚桑楚篇」に「衛生」という言葉があったのを憶いついて、本書(『荘子』のこと)の意味とはやや異なるけれども字面高雅にして呼声もわるくないので、ついにこれを健康保護の事務に適用することにし、このたび改めて本局の名称に充てられるよう申し出た結果、衛生局の称がここに始めて定まった。これいらい、わが局務範囲内のあらゆる事物にもあてたところ、今では一般の通語となり、自然にその意味も人々に感通するようになったのは、自分の思いもよらない幸いである。」と。
それでは『荘子』にはどのように出ているのであろうか。庚桑楚の弟子、南栄趣(なんえいしゅ)という者が、「どうか〈衛生の経(けい)〉、すなわち生命を全く守る根本の道について教えて下さい。」と云ったのに対して、庚桑楚の師老聴(ろうたん)先生は、「己れの生命を全うする第一義な在り方は、〈一を抱く〉すなわち己れの本性の統一さをしっかりと守ることである。幼い嬰児のようにさかしらの心をもたず、外物に無心に順ってゆくこと、これが〈衛生の経〉己れの生命を全うする根本の道だ。」と答えている。
専斎はこのように『荘子』に出る「衛生」は、その意味するところ諸外国にみる(わが国に導入しようとする)衛生制度の意味と少し異っていると上に述べているのであるが、彼が欧米先進諸国の当該制度に傾倒しながらも、その思想、的背景に深い東洋哲学・思想になじんでいたことを改めて考えべきであろう。今日、公害、終末期治療、尊厳死の問題が社会的に大きな問題となってきているさい、科学者のみならず、すべて人びとが、人間とはいかなる存在か、その生命とは何か、生命を全うするにはいかにすべきかについて思索を深めるときがきている。そのさい、『荘子』研究の第一人者福永光司氏の次の言葉を私は静かに深く味わいたいと思うのである。
「科学というものが、知的分析を身上として万物の”異”の中に人間を限りなく拡散させることを本質とするものであるといえるならば、万物の根源的な同一性への目ざめを強調する荘子の哲学は、明かに科学とは全く対極的な立場に立つ。しかも、すべての対立と闘争とが分析的な万物の”異””往いて反(かえ)らざる”追求の中から生み出されてくるとするならば、荘子の哲学こそは人間の安らかな生き方と社会の平和な在り方とに関して最も根源的な英知を示唆しうるであろう。」(大阪大学名誉教授・仏教大学教授)
引用元:ja https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/36/5/36_5_237/_pdf/-char/ja

南榮趎曰:「里人有病,里人問之,病者能言其病,然其病病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衛生之經而已矣。」

老子曰:「衛生之經,能抱一乎?能勿失乎?能無卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?能舍諸人而求諸己乎?能翛然乎?能侗然乎?能兒子乎?兒子終日嗥而嗌不嗄,和之至也;終日握而手不掜,共其德也;終日視而目不瞚,偏不在外也。行不知所之,居不知所為,與物委蛇,而同其波。是衛生之經已。」
引用元:莊子 : 雜篇 : 庚桑楚 – 中國哲學書電子化計劃 https://ctext.org/zhuangzi/geng-sang-chu/zh