【開国強要、治外法権、司法独立、扶清滅洋、密使派遣】

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江華島事件1875
ノルマントン号事件1886
大津事件1891
北清事変1900
ハーグ密使事件1907
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日本が1875年に朝鮮の江華島を砲撃し、開国を迫った事件。

明治維新後、日本政府は朝鮮王朝(李朝)に開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。1875年、日本は軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪した。日本側は朝鮮側の砲撃の責任を問い、交渉のための開国を迫り、翌1876年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国した。なお、このとき日本軍が砲撃した江華島はソウルに近い漢江の河口にあって、かつて元に抵抗した戦った高麗の宮廷が置かれたところである。またこの時日本軍が上陸して略奪を行った隣の永宗島は、現在はアジアのハブ空港としてにぎわっている仁川(インチョン)国際空港があるところである。
引用元:江華島事件 https://www.y-history.net/appendix/wh1303-129.html

ノルマントン号事件
ノルマントンごうじけん

和歌山県南部,潮岬付近でイギリス商船が遭難し日本人乗客全員が死亡した事件。1886年10月24日,横浜港を出港して神戸港に向かっていたイギリス商船『ノルマントン』号が暴風のため座礁・沈没した際,イギリス人乗組員は全員ボートで脱出したが,日本人乗客 25人は全員船内で溺死した。当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり(→領事裁判),事件の審判は兵庫県神戸市駐在イギリス領事館内で行なわれた。ジェームズ・トループ領事は J.W.ドレーク船長以下全乗組員に無罪の判決をくだした。世論は判決が差別的であると激昂,政府は兵庫県知事内海忠勝を告発人として船長を同領事館裁判所に告発した。同 1886年12月,神戸での予審終結をうけて神奈川県横浜市駐在イギリス領事館裁判所は船長に禁獄 3ヵ月の判決をくだした。この事件は,おりから高まりをみせていた領事裁判権廃止を含む不平等条約改正(→不平等条約)の国民運動にいっそうの刺激を与えることになった。
引用元:ノルマントン号事件(ノルマントンごうじけん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6-112586

大津事件
おおつじけん

1891年5月 11日,来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチが,大津において警備の巡査津田三蔵に斬られ負傷した事件。その裁判をめぐって,政府側と大審院長児島惟謙との見解が対立,紛糾した。別名湖南事件ともいう。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中,路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は,皇太子の来遊が,日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが,政府側はロシアの報復を恐れ,不敬罪を適用して死刑にすることを企図し,裁判に強力に干渉した。しかし,大審院の臨時法廷は,大津地方裁判所で同月 27日に開かれ,犯人は謀殺未遂に問擬され,無期徒刑を宣告された。この裁決は司法権の独立を守ったものとして広く知られる。
引用元:大津事件(おおつじけん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6-39396

義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語: 義和團運動; ピン音: Yìhétuán Yùndòng)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。義和団事件・義和団事変・北清事変[1](ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。

清国の敗退によって「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開された[2]が、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった[3]。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため8ヶ国連合軍が北京に進出し、大日本帝国が中でも最大の兵力8000人を投入した[2]。
引用元:義和団の乱 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

1907年韓国皇帝が万国平和会議に密使を派遣し、日本による保護国化無効を訴えた。

1907年、オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に大韓帝国(韓国)の皇帝高宗が密使を派遣し、第2次日韓協約(乙巳保護条約)の無効を世界に訴えようとした。これをハーグ密使事件という。
 なぜ「密使」としなければならなかったかというと、大韓帝国は第2次日韓協約によって、外交権を日本に奪われており、独自に外交を行うことができなかったからである。そのため、日本に知られぬよう、密使の派遣となった。このことを知った韓国統監の伊藤博文は、高宗の協約違反を口実に退位をせまり、皇太子を即位させてしまった。この密使事件と統監による皇帝退位強制に対して大韓帝国の朝鮮人は憤激して、抗議集会が大々的に催された。伊藤博文統監はこれらの抗議運動を軍隊を動員して鎮圧し、さらに日本は軍隊を増強して圧力をかけ、同年中に第3次日韓協約を締結し、韓国軍の解散などを強制して保護化を一歩進めた。
引用元:ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E5%AF%86%E4%BD%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6-113870