マチネ・ポエティク

1942年に加藤周一、中村真一郎、
福永武彦らが結成した、日本語
による定型押韻詩を試みようと
した文学グループの名前は?
ィクマポネエ・テチ
マチネ・ポエティク(答)
21%

マチネ・ポエティク
まちねぽえてぃく

文学グループ。1942年(昭和17)秋、中村真一郎、加藤周一、福永武彦(たけひこ)らによって結成。初め各自の詩や小説、そしてエッセイの朗読会であったが、しだいに定型詩への関心を深めていった。その結果は第二次世界大戦後の『マチネ・ポエティク詩集』(1948)に示されている。この押韻定型詩の試みは、三好(みよし)達治の『マチネ・ポエティクの試作に就て』などによって否定的にしか評価されなかった。なお、このグループは46年(昭和21)に雑誌『世代』を、48年に同じく『方舟(はこぶね)』を創刊。ほかにエッセイ集『1946 文学的考察』(1947)もある。[安藤靖彦]
引用元:マチネ・ポエティク(まちねぽえてぃく)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF-1595337

マチネ・ポエティクとは、太平洋戦争中の1942年に、日本語によるソネットなどの定型押韻詩を試みるために始まった文学運動。加藤周一、中村真一郎、福永武彦、窪田啓作、原條あき子らが中心となった。ただし、正式に外部に対してこう名乗ったのは終戦後の1946年、「世代」創刊号から第6号まで掲載された『CAMERA EYES』においてである[1]。

概要
この運動の念頭には、フランス文学者でもあった福永の近代日本文学への批判及び、日本の文学者は外国語を理解していない、という批判(加藤、中村との共著『1946・文学的考察』より)があった。福永らは、文学にとって必要な「他者としての自己」を確立するために外国語を学ぶことを主張し、その一環として外国語の手法で詩を作ることを目指した。

戦後の1948年、中村らは真善美社より「マチネ・ポエティク詩集」を上梓するが、日本語による押韻詩を否定していた三好達治(『マチネ・ポエテイクの試作に就いて』、「世界文学」1948年4月号)から否定的な評価を受ける。その後、三好の批判を受けて自己批判を行った中村が1950年に「終息宣言」を出すに至る。以降、メンバーは小説や評論に転じて殆ど詩作を廃した。ちなみに、福永は1947年から肋膜炎により療養していたため、論争には参加していない。
引用元:マチネ・ポエティク – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF