【井戸無村海】イドリース、ムワッヒド、ムラービト、マリーン

次のうち、かつてモロッコに
存在した王朝を1つ選びなさい
アケメネス朝 イラン
サファヴィー朝 イラン
ムワッヒド朝(答)
パフレヴィー朝 イラン
ムラービト朝(答)
カージャール朝 イラン
マリーン朝(答)
ヴァロワ朝 フランス
63%

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788年に現在のモロッコに
成立した、フェズを首都
としたイスラム王朝の名前は
◯◯◯◯◯朝?
サラリビス
イーマロド
アドーヒト
イドリース(答)
「イドリース朝」

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873年に現在のイラン東部に
成立した、ブハーラーを首都
としたイスラム王朝は
◯◯◯◯◯朝?
イドマビス
ムラリヒド
アワッート
サーマーン(答)
「サーマーン朝」

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1212年にキリスト教連合軍が
ムワッヒド朝率いるイスラム軍を
破った戦いは
◯◯◯◯◯◯◯◯◯の戦い?
・ロサト・バナデス
ナバス・デ・トロサ(答)
「ナバス・デ・トロサの戦い」

モロッコのイスラーム国家

 しかし広大な領土もつに至ったアッバース朝は、都バグダードから離れた地域への統制を次第に放棄するようになり、各地に地方政権が登場するようになった。以下、モロッコの地に生まれたイスラーム教を奉じる諸国家の興亡は次のようにまとめることが出来るが、次第にアラブ人支配からベルベル人が自立していくこと、その際中央のスンナ派との関係で、イスラーム教の分派のシーア派国家が生まれたことなどに注意すること。

・イドリース朝 8世紀の末には、第4代カリフのアリーの子孫がこの地で自立してイドリース朝として自立した。これは最初のシーア派国家であった。この王朝の都として建設されたのがフェスである。9世紀には内部対立から衰退し、チュニジアに起こったファーティマ朝によって926年に滅ぼされた。ファーティマ朝がエジプトに移動した後のモロッコにはベルベル人の小国家分立が続いた。

・ムラービト朝 西サハラの遊牧ベルベル人の中に起こった厳格なスンナ派信仰を掲げた教団が、1056年に建国した。ムラービトとは、修道士を意味するムラービトゥーンから来ている。かれらは周辺の異教徒に対する聖戦を展開、まずサハラ南部のガーナ王国を征服、さらに北上してモロッコを征服して、新都マラケシュを建設した。さらに1086年にはイベリア半島に入り、キリスト教勢力を破り、そのレコンキスタ運動を一時後退させた。ムラービト朝はこうしてジブラルタルをはさんで両大陸を支配する国家となったが、イベリア半島のアンダルスの都市生活に順応していく内に、信仰上の純粋性と遊牧民としての戦闘性が次第に薄くなり、弱体化した。

・ムワッヒド朝 ムラービト朝は遊牧ベルベル人主体の国であったのに対し、定着民のベルベル人部族の一つが1146年にマラケシュを占領して建てたのがムワッヒド朝。ムワッヒドとは、神の唯一性を信ずる人の意味のムワッヒドゥーンから来ていおり、やはり宗教的な結束の強い国家であったが、ムラービト朝がスンナ派でありアッバース朝カリフを認めたのに対して、ムワッヒド朝はスーフィズムの影響を受け、またシーア派にも近かったのでアッバース朝を認めず、自らカリフと称した。またその領土はマグリブ地方のアルジェリア、チュニジアに及び、またムラービト朝と同じくジブラルタルを超えてイベリア半島南部(アンダルス)をも支配したが、サハラ以南には領地は及ばなかった。ムワッヒド朝の下でイブン=ルシュド(アヴェロエス)がどが活躍し、西方イスラーム文化が開花した。12世紀のムワッヒド朝全盛期の王がヤークーブ=アルマンスール王で、彼はイベリアでキリスト教軍に大勝し、セビーリャやラバト(現在のモロッコの首都)に大モスクを建設した。しかし、再びキリスト教勢力の国土回復運動が活発となり、1212年にラス=ナバス=デ=トロサの戦いでキリスト教国連合軍に敗れてイベリア半島から撤退し、1269年にマリーン朝に滅ぼされた。

・マリーン朝 モロッコに登場したムワッヒド朝の後継国家の一つ。メリニッド朝ともいう。1248年にフェスを都として自立し、69年にマラケシュを征服してムワッヒド朝を滅ぼした。都はフェスに置かれた。この王朝の14世紀にタンジールで生まれたのがアラブの大旅行家として知られるイブン=バットゥータである。彼は三大陸にわたる大旅行を行ってフェスに戻り、マリーン朝の君主の求めに応じて旅行記を口述した。マリーン朝は1471年まで存続したが、その一族が建てたワッタース朝(1471~1550)に交替した。しかしこの王朝の時代は部族対立のため不安定であった。
引用元:モロッコ https://www.y-history.net/appendix/wh1402-032.html