朝鮮「通信使」『交隣堤醒』

2017年10月に世界記憶遺産に登録
された、江戸時代に朝鮮王朝が
派遣した外交使節は朝鮮◯◯◯?
◯の漢字をひらがなで答えなさい
つうしんし(答)
49%


江戸時代の儒学者・雨森芳洲が
1728年に対馬藩主に献上した、
朝鮮外交の心得を述べた著書は?
隣堤醒要接
交朝見治管
交隣堤醒(答)
18%
こうりんていせい
引用元:『交隣提醒』 https://seethefun.net/%e6%96%87%e7%b3%bb%e5%ad%a6%e5%95%8f/37814/

朝鮮王朝から江戸幕府の将軍代替わりに際して派遣された使節。

 徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝つとすぐ、対馬の宗氏を介して朝鮮との国交回復を図った。朝鮮王朝は国交回復の条件として、二度と朝鮮を侵さないこと、侵略の時王陵をあばいた犯人を引き渡すことなどを要求した。家康はその要求を入れ、1607年に朝鮮は「通信使」を派遣することを約束し、以後江戸末期の1811年まで12回派遣されることとなる。
 通信使は正使、副使の他、儒学者、医師、画家などを含み総勢500人を超えることもあった。朝鮮通信使が江戸に向かう間、各地で日本の文人、学者たちとの交歓が見られた。一方、日本からの使節は漢城まで行くことが許されず、釜山の倭館で応接を受けた。日本に対する不信が完全にはぬぐい去られていなかったのである。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.164~>

Episode 元禄享保の国際人 朝鮮通信使との交渉

:鎖国時代の日本で、朝鮮通信使は貴重な外国情報を入手する機会でもあり、外国文化に接する機会でもあった。通信使の一行の中には儒学者や医者、画家が必ず加えられ、途中の宿で日本人の学者、医者、画家との交流が行われた。中には朝鮮語に巧みな日本人学者もいた。その中で最もよく知られたのが雨森芳州である。彼は元禄から享保の頃、対馬藩に仕えた儒者で、江戸や長崎で中国語を学び、さらに釜山の倭館で朝鮮語を学んだ。当時はまだ公用の文字とされていなかったハングルも学んでいる。雨森芳州は木下順庵門下で、新井白石とは同門であったが、白石の朝鮮通信使への厳しい態度や将軍の称号問題での高圧的な態度に反対し、朝鮮使節との対等な交渉を主張した。時には朝鮮使節と激しくやり合ったが、それも高い朝鮮語の能力によって可能だったし、学者としての見識や詩文では朝鮮の学者から称賛されている。鎖国時代の日本でも外国語をマスターし、堂々と渡り合った「外交官」が存在したのだ。<上垣外憲一『雨森芳州-元禄享保の国際人』1989 中公新書>
引用元:朝鮮通信使 https://www.y-history.net/appendix/wh0802-050.html

朝鮮通信使【ちょうせんつうしんし】
朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代に将軍の代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬の宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。この結果1607年から1811年まで計12回にわたって使節が来日。最初の3回は朝鮮侵略の際に日本へ拉致(らち)された朝鮮人の送還を兼ね,回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ぶ。総勢400名前後の大使節団で,沿道の大名が盛大に饗応。国内に将軍の国際的地位を示す上でも来日は重視されたが,1711年新井白石は使節の待遇を簡素化した。
引用元:朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF-162068