【平安時代】平将門


次の歴史上の人物を
活躍した時代ごとに
グループ分けしなさい
34%

飛鳥時代奈良時代平安時代
藤原道長
聖武天皇
平将門
藤原鎌足

藤原道長
ふじわらのみちなが

[生]康保3(966).京都
[没]万寿4(1027).12.4. 京都
平安時代中期の廷臣。兼家の第5子。母は藤原中正の娘時姫。権大納言の地位にあった長徳1 (995) 年長兄道隆,次兄道兼が相次いで没すると,その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争って,同年内覧,右大臣,氏長者となって政権の首座についた。翌年伊周の失脚により左大臣。長和5 (1016) 年外孫の後一条天皇の践祚とともに摂政となったが,翌年これを嫡子頼通に譲った。しかし実権は自分で握り,藤原氏摂関政治の最盛期を築いた。同年従一位,太政大臣となったが,翌年これを辞し,さらに翌寛仁3 (19) 年出家し,行観 (同年行覚と改む) といった。出家後法成寺を造営し,晩年はここに住んだ。日記『御堂関白記』があるが,関白に就任したことはない。
引用元:藤原道長(ふじわらのみちなが)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7-124699

聖武天皇
しょうむてんのう

[生]大宝1(701).大和
[没]天平勝宝8(756).5.2. 奈良
第 45代の天皇 (在位 724~749) 。名は天璽国押開豊桜彦尊 (あめしるしくにおしはるきとよさくらひこのみこと) ,また首 (おびと) 。文武天皇の第1皇子,母は藤原不比等の娘,尊称太皇太后宮子娘。神亀1 (724) 年即位。先に入内した夫人安宿媛 (あすかべひめ。贈太政大臣藤原不比等の娘) を皇后 (光明皇后) とし,皇族から立后の旧慣を破った。仏教を深く信じ,国ごとに国分僧尼寺を建て,みずから経文を書写してこれに納めた。また東大寺を建立し,像高約 15mの大仏である盧舎那仏 (るしゃなぶつ) を鋳造した。この大事業やその他の諸寺院の建立のため国家財政は窮乏し,人心は朝廷から離反し,宮廷内の抗争も激しくなっていった。天平勝宝1 (749) 年戒を受けて勝満と号し,位を皇太子 (孝謙天皇) に譲った。仏教の興隆に伴い美術工芸が著しく発達し,いわゆる天平文化を現出した。天平宝字2 (758) 年勝宝感神聖武皇帝の尊号を受けた。陵墓は奈良市法蓮町の佐保山南陵。
引用元:聖武天皇(しょうむてんのう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-79887

平将門
たいらのまさかど

[生]?
[没]天慶3(940).2.14. 下総,北山
平安時代中期の武将。鎮守府将軍良将の子。上京して藤原忠平に仕えたが,官途を得ず下総に帰った。前常陸大掾源護と争い,これに味方した叔父国香を殺し,国香の子貞盛に攻められたが,これを打ち破った。のち常陸国府を焼打ちし,下野,上野の国府を攻略して,新皇と号し,下総に王城を営み,文武百官を任命した。朝廷では,征東大将軍藤原忠文に討伐させたが,その軍の到着以前に,下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛に殺された。死後,その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られた。 (→承平・天慶の乱 )  
引用元:平将門(たいらのまさかど)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80-92230

藤原鎌足 ふじわらの-かまたり
614-669 飛鳥(あすか)時代,藤原氏の祖。
推古天皇22年生まれ。中臣弥気(なかとみの-みけ)の子。中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智(てんじ)天皇)とともに蘇我(そが)氏打倒をはかり,皇極天皇4年(645)蘇我入鹿(いるか)を殺害。大化の新政府で内臣(うちつおみ)となり,中大兄を補佐して律令制への改革をすすめた。臨終に際し大織冠(たいしょっかん)と大臣の位,藤原朝臣の氏姓をあたえられる。天智天皇8年10月16日死去。56歳。初名は鎌子。
引用元:藤原鎌足(ふじわらの かまたり)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3-15087