カーナティック戦争


18世紀、イギリス領マドラスと
フランス領ポンディシェリの間
で争われた植民地戦争は
◯◯◯◯◯◯◯戦争?
カッーナィテク
カーナティック(答)
49%

カーナティック戦争(カーナティックせんそう、英語:Carnatic Wars)とは、18世紀に南インドで、イギリス領インドの拠点であったマドラスとフランス領インドの拠点であったポンディシェリーとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。ここで言及されるカルナータカ地方は、現在のアラビア海に面したカルナータカ地方とは違い、アーンドラ地方とタミル地方の一部を指す。また、カーナティックは英語読みであるため、カルナータカ戦争とも呼ばれる。

ヨーロッパのオーストリア継承戦争と七年戦争と連動し、南インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。最終的にはイギリス側の勝利に終わった。
引用元:カーナティック戦争 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89

カーナティック戦争
18世紀中頃、南インド諸国の対立に介入したイギリスとフランスが3次にわたって抗争した戦争。

 カーナティック戦争は第1次が1744~48年、第2次が50~54年、第3次が58~61年の3次にわたって展開した。カーナティックとは地名で、南インドの東海岸一帯を言う。その地方は、イギリス東インド会社がマドラス(現在のチェンナイ)、フランス東インド会社がポンディシェリを拠点として、それぞれインド経営を展開していた。
 この戦争はインド植民地支配の主導権を巡って、イギリスはクライヴ、フランスはデュプレクスに率いられた両軍が、現地勢力とそれぞれ結んで衝突したものである。またヨーロッパでは同時にオーストリア継承戦争(1740~48年)・七年戦争(1756~63年)が展開され、一種の世界戦争の観を呈している。

カーナティック戦争の結果

 第1次と第2次ではフランスのデュプレクスの働きでフランスが有利に戦いを進めたが、デュプレクスが本国に召還された後の、第3次でイギリスが勝利を占め、プラッシーの戦いでの勝利もあってイギリスのインドにおける優位が確立した。1763年のパリ条約で、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。
 これら一連のインドにおける植民地抗争は、ヨーロッパ本土とアメリカ植民地での英仏植民地戦争あるいは英仏百年戦争(第2次)として展開されたものであり、直接的には勝利したイギリス第一帝国を成立させたが、同時に英仏ともに長期化した戦争は財政を圧迫し、それがアメリカ独立革命とフランス革命の遠因となった。
引用元:カーナティック戦争 https://www.y-history.net/appendix/wh1002-033_1.html