カミュ


幕末の1863年に武蔵国で
起きた「井土ヶ谷事件」で
攘夷派の浪士たちに殺害された
フランス士官の名前は?
スタンダール
カミュ(答)
バルザック
サルトル
43%

井土ヶ谷事件(いどがやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の1863年10月14日(文久3年9月2日)に武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(現在の神奈川県横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)で起きた、攘夷派の浪士によるフランス士官殺傷事件。

経緯
横浜居留地の警備のため上海より呼び寄せられていたフランス陸軍アフリカ猟歩兵第3大隊所属のアンリ・カミュ少尉[1](J. J. Henri Camus、1842年 – 1863年)と士官2名は、程ヶ谷宿に向かうため乗馬で井土ヶ谷村に入ったところを、浪士3名に襲撃された。先頭に居たカミュは死亡した。同行した他の2名は逃走し命に別状はなかった。

神奈川奉行並合原猪三郎は捜査を開始したが、フランス公使ド・ベルクールおよびフランス海軍提督ジョレスには犯人逮捕は難しい旨が報告され、襲撃した犯人は不明のまま逮捕されなかった。ベルクールは事件の解決と謝罪のため、フランスに特使として外国奉行竹本正雅(甲斐守)を派遣することを幕府に勧めた。12月、幕府は横浜鎖港の交渉を行うために外国奉行池田長発ら34名からなる横浜鎖港談判使節団を派遣。翌年3月、使節団はフランスを訪れ政府に事件を謝罪すると同時に、195,000フラン(35,000ドル)の扶助金を遺族に支払い事件は解決したが、鎖港の交渉は失敗に終わった。

カミュの遺体は、横浜市中区の横浜山手外国人墓地に埋葬されている。
引用元:井土ヶ谷事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%9C%9F%E3%83%B6%E8%B0%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ここでは、開国後から維新直後にかけて頻発した、外国人襲撃・殺害事件を述べる。
引用元:幕末の外国人襲撃・殺害事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A5%B2%E6%92%83%E3%83%BB%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6