真田信繁


大阪夏の陣の最後の決戦となった
天王寺・岡山の戦いで、徳川秀忠
の本陣に突入するという奮闘を見せた
武将は大野治長である
×(答)
◯真田信繁
60%

天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における戦いである。

真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢と交戦していたが、松平勢は真田勢の陣を抜くと大坂城に直進し、入れ違う形で真田勢は家康本陣方向へ進出した。さらに浅野長晟が寝返ったと虚報を流して幕府方の動揺を誘い、これに乗じて毛利勢に苦戦する家康本陣へ近づき3回に渡って突撃を繰り返した。
引用元:天王寺・岡山の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名[9]。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。

豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評される[10]などした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
引用元:真田信繁 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81

大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。兄弟に、治房・治胤・治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位は従四位下修理大夫。知行15,000石。

天王寺・岡山の戦いでは、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に布陣、秀頼の出馬を待っていたが、戦闘に参加することなく城内に撤退した。

将軍・秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。母親・大蔵卿局、長男の治徳も共に自害している。

『春日社司祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と記している[3]。享年47。

人物
茶の湯を古田重然(織部)に学んだ茶人でもある[4]。
真田信繁とは秀吉の馬廻りを務める旧知の間柄で、大坂の陣で信繁を招いたのも治長だったとされる[5]。信繁に兵力を預けて、指揮をとらせたことを考えると愚将であったとは思えないと評価されている[5]。治長が憎まれ役になったのも、家康に逆らった豊臣家の首脳であったため江戸時代に悪役に仕立てられたといえる[5]。
引用元:大野治長 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E9%95%B7