マンティネイアの戦い


テーベのエパミノンダスが戦死
した、前362年に古代ギリシャ
のテーベとスパルタが激突した
戦いは◯◯◯◯◯◯◯の戦い?
ティマネイアン
マンティネイア(答)
40%

マンティネイアの戦い(英:Battle of Mantinea)はアルカディアのマンティネイアにて紀元前362年にテーバイを中心とするボイオティア同盟軍とアテナイ・スパルタ・マンティネイア連合軍との間で戦われた会戦である。

その後
この戦いの後、双方が勝利を主張したものの[22]、交戦国の間で和平が結ばれた[23]。この戦いでボイオティア同盟軍は勝利を得たものの、エパメイノンダスをはじめとする多くの有能な将軍を失った。そして、テーバイの覇権は彼の個人的な才覚に依存していたため、これ以降テーバイはギリシアの覇権を維持できなくなり、衰退の道を歩むこととなった。
引用元:マンティネイアの戦い (紀元前362年) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D362%E5%B9%B4)

ギリシアのポリス、テーベの将軍。前371年にスパルタと戦って勝利し、テーベの覇権をもたらした。

 エパミノンダス(Epameinondas 前418~前362 エパメイノンダスとも表記する)は、前4世紀前半のギリシアのポリス、テーベ(テーバイ)の将軍。ペロポネソス戦争後にギリシアの覇権を握ったスパルタと対立し、前371年のレウクトラの戦いで正面から衝突した。エパミノンダスの戦いはギリシアの各ポリスの市民軍の基本戦術であった重装歩兵・密集部隊(ポプリテス=ファランクス)の戦い方に「斜線陣」といわれる新戦術をとりいれたもので、当時最強と言われたスパルタ軍を破ったので多いに名声を挙げた。その結果、テーベは10年にわたりギリシアの覇権を握ったが、前362年にふたたびスパルタと戦い、勝利したものの彼自身は戦死し、テーベの勢力は急速に衰えた。

エパミノンダスの斜線陣

 前371年のレウクトラの戦いは、強力なスパルタ陸軍を、新興勢力のテーベ軍が予想に反して破った戦いとして名高い。その指揮を執ったエパミノンダスの戦術は斜線陣といわれるもので、左翼に重装歩兵密集部隊を縦隊で厚く備え、中央と右翼には機動性のある騎兵と軽装兵を左翼よりも後方に置いて敵との接触を遅くなるように配置した。スパルタ軍は従来どおり、中央、左右両翼とも横隊で一列に並べていた。エパミノンダスはまず左翼を敵の劣勢な右翼につっこませて突破し敵陣の背後に回り、転回してスパルタ軍を包囲し殲滅した。これがエパミノンダスの新戦法だった。テーベ軍はペロポネソス半島に侵入し、スパルタに迫ったが、前362年のマンティネアの戦いでスパルタ軍に勝ちながらエパミノンダスが戦死し、以後急速に衰えた。<村川堅太郎『ギリシアとローマ』1961 世界の歴史2 中央公論社 p.135-137>
 このエパミノンダスの斜線陣は、アレクサンドロス大王のアルベラの戦い(ガウガメラの戦い)、ハンニバルのカンネーの戦いでも採用された。
引用元:エパミノンダス https://www.y-history.net/appendix/wh0102-089_1.html