玄武門の変


626年に中国・唐で起こった
李建成を殺害して李世民が
第2代皇帝となった事件は
◯◯◯の変?
義学山
玄和党
応天門
玄武門(答)
27%

唐を建国した李淵の子。第2代皇帝太宗として律令体制の整備に努め、7世紀前半の貞観の治と言われる唐帝国繁栄の時期を出現させた。

 李世民は、父李淵(高祖)に勧めて挙兵し、唐の建国に功績があった。第2子であったが、兄の李建成を殺害し、父の高祖を幽閉(626年の「玄武門の変」)して第2代の皇帝太宗(在位626~649年)となった。このような異常な方法で権力を握った皇帝であるが、統治者としては中国史上でも有数の名君とされ、その統治は「貞観の治」と言われている。
玄武門の変

 626年6月4日、長安の宮城北門の玄武門で、当時、秦王であった李世民は妻の兄長孫無忌、将軍尉遅敬徳ら9人を率いて、兄の皇太子建成と弟の斉王元吉を襲撃し、李世民は自ら兄と弟を射殺した。3日後の6月7日には李世民は皇太子となり、2ヶ月後の8月9日には帝位について父の高祖は太上皇帝に祭り上げられてしまった。この李世民の強引な兄弟と父親の排除は、普通、高祖が凡庸で酒色にふける建成を皇太子とし、挙兵に功績のあった李世民をないがしろにし、さらに建成が李世民を除こうと画策ししていることを知った李世民が先手をとったのだ、と説明されている。これは権力闘争に勝った李世民が自らの正当性を主張するために作り上げたことであろう。最近では、仏教と道教の対立が背景にあり、建成が仏教保護の立場であることに危機感を持った道教側が李世民を動かして皇太子建成の排除を図ったという説明もある。<礪波護『隋唐帝国と古代朝鮮』1997 世界の歴史6 中央公論新社 p.191>
引用元:李世民/太宗 https://www.y-history.net/appendix/wh0302-015.html

玄武門の変
げんぶもんのへん
中国の唐代、626年6月4日、長安宮城の北門である玄武門において、秦(しん)王李世民(りせいみん)(太宗)が、兄の皇太子李建成(りけんせい)と弟の斉(せい)王元吉(げんきつ)を殺害した事件。世民は唐朝の創業とその後の群雄討伐にあたって、他の兄弟に比べて、功績が抜群であり、父の高祖李淵(りえん)もその処遇に困っていた。皇太子は、長子相続制によって早くから兄の建成が就任していた。この事件は、建成側が世民を除こうとしたのか、世民側が建成、元吉の殺害を謀ったのかは不明だが、事件の当日は、世民が妻の兄の長孫無忌(ちょうそんむき)らと玄武門で待ち受け、世民が建成を射殺し、元吉は世民配下の者に射殺された。世民は同月7日に皇太子となり、同月16日に高祖は自ら太上皇となり、翌月、世民は即位し、唐朝第2代皇帝太宗となった。[布目潮]
引用元:玄武門の変(げんぶもんのへん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%8E%84%E6%AD%A6%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89-61034