コシューシコ


米独立戦争での活躍を経て
18世紀末に祖国・ポーランドの
分割に対して武装蜂起するも
ロシアに敗れ去った愛国者は?
フシンーシン
コェュクソス
ジラファモー
コシューシコ(答)
50%

アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコ (波: Andrzej Tadeusz Bonawentura Kościuszko 、1746年2月4日 – 1817年10月15日)はポーランド・リトアニア共和国の将軍にして政治家、アメリカ合衆国の軍人で、1794年の蜂起の指導者としてポーランドとリトアニアでは国民的英雄である。

1793年の第2回ポーランド分割後にポーランドに戻り、主にジャコバン派と農民たちを糾合してクラクフで蜂起(コシチュシュコの蜂起(英語版))。最大の戦闘「ラツワヴィツェの戦い(ポーランド語版、ロシア語版、英語版)」(記念館がヴロツワフにある)でロシア軍に大勝し一時はワルシャワ、ヴィリニュスをおさえたが、やがて兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。1794年10月には彼自身も戦傷を負いロシア軍に捕らわれた。コシチュシュコの敗北によりポーランド国家は消滅の憂き目にあう。

1798年にコシチュシュコはフランスへ亡命するが、ナポレオンの帝国思想やそれにもとづいたポーランド政策には同調しなかった。その後はスイスに移住し、ゾーロトゥルンで腸チフスに罹患して客死した。

ロシアの著名な劇作家ミハイル・アルツィバーシェフは曾孫。
引用元:タデウシュ・コシチュシュコ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3

アメリカ独立戦争に参加した後、祖国ポーランドの分割に対して抵抗し、1794年に蜂起した。

 コシチューシュコ Kosciuszko がより原音に近い表記。ロシア、プロイセン、オーストリアによる分割に抵抗したポーランドの英雄。ワルシャワとパリの士官学校を卒業した軍人で、アメリカに渡り、アメリカ独立戦争に参加。1784年に帰国して、1792年の第2回ポーランド分割でロシア軍と戦う。降服に反対して除隊し、フランス革命の渦中にあったパリに渡ってジロンド派やジャコバン派にポーランドの窮状を訴え、その支援を約束させた。
1794年に農民を組織して立ち上がった。これをコシューシコ蜂起という。ロシア軍との緒戦に勝利したコシューシコは農民の自由を宣言、さらに勝利を重ねたが、フランスの支援が得られず、国内でもシュラフタ層が農奴解放への不満から協力しないようになり、10月の戦闘ではみずからも負傷して捕虜となってしまい、11月にはワルシャワがロシア軍に占領され、蜂起は鎮圧された。翌1795年に三国による第3回分割が行われ、ポーランドは完全に消滅する。コシューシコは1796年に釈放されてからパリに移住、ポーランドの再興をめざしながら果たすことができず没した(1817年)。
引用元:コシューシコ https://www.y-history.net/appendix/wh1001-174.html

コシチューシコ
こしちゅーしこ
Tadeusz Kociuszko
(1746―1817)

ポーランドの軍人。ワルシャワの士官学校を卒業。1776~83年にアメリカ独立戦争に参加し、ウェスト・ポイントの要塞(ようさい)工事で功績をあげた。帰国後、ポーランド軍の司令官に就任し、「五月三日憲法」(1791)の制定に反対して侵入したロシア軍と戦い、一時的に勝利を収めるが、第二次ポーランド分割後、国外に亡命した。94年3月クラクフで独立蜂起(ほうき)が起こると独裁官に就任し、農民兵を含む部隊を率いて、ラツワビツェでロシア軍を破った。同年5月、農民の協力を得るために、農奴制の廃止をうたった「ポワニェツ宣言」を発布した。しかし、ロシアとプロイセンとの連合軍に圧倒され、同年10月マチェヨビツェの戦いで負傷し、ロシア軍の捕虜となった。のち釈放され、97年にアメリカに渡り、翌年からパリに居住するが、ナポレオン1世のポーランド政策には反対した。晩年はスイスで余生を送った。[安部一郎]
『コシチューシコ著、中山昭吉訳『民族解放と国家再建によせて』(1972・未来社)』
引用元:コシチューシコとは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B3-64706