大津皇子


妻は山辺皇女
川島皇子の密告で謀反が発覚
草壁皇子と対立
父親は天武天皇
山背大兄王
大津皇子(答)
長屋王
有間皇子
38%


高市皇子の子
1988年に邸宅跡発掘
天武天皇の孫
藤原氏の陰謀により自害
長屋王(答)


2007年、奈良時代のものとされる
大型の絵馬が発見された奈良市
日笠町の遺跡は日笠◯◯◯◯
遺跡? ◯を答えなさい
フシンダ(答)
日笠フシンダ遺跡

大津皇子(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) – 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。

母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。

683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である首親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる[1]。しかし、当時まだ年少だった長皇子・舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。

686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。

『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。また、『万葉集』の題詞には死の直前に、姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。
引用元:大津皇子 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90

大津皇子
おおつのおうじ

[生]天智2(663)
[没]朱鳥1(686).10.3.
天武朝の皇族政治家,歌人,漢詩人。天武天皇の第3皇子で,母は大田皇女 (ひめみこ) 。同母の姉に万葉歌人大伯 (おおくの) 皇女がいる。壬申 (じんしん) の乱のとき,近江を脱出して父の一行に合流,父は大いに喜んだという。天武 12 (683) 年初めて朝政に参与したが,天皇崩御の直後,皇太子草壁皇子に謀反のかどをもって捕えられ処刑された。『日本書紀』『懐風藻』の伝によれば,文武に秀でた大人物で,「詩賦の興れるは大津より始る」とされる。『万葉集』に短歌4首,『懐風藻』に漢詩4編を残しているが,このうち『万葉集』巻三の辞世の歌と『懐風藻』の『五言臨終一絶』は有名で,高く評価されている。
引用元:大津皇子(おおつのおうじ)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E7%9A%87%E5%AD%90-39401