ニザームルムルク


君主であるマリク・シャーを
支えて、セルジューク朝トルコ
の全盛期をもたらした宰相は?
ザーニルクムムル
ニザームルムルク(答)
18%
Niẓām al‐Mulk
ニザーム・アルムルク

ニザーム=アルムルク
11世紀後半、セルジューク朝の最盛期のイラン人宰相。学問の奨励でも有名。その名はニザーミーヤ学院に残る。

 11世紀後半、セルジューク朝のアルプ=アルスラーンとマリク=シャーという2代のスルタンに仕えたイラン人の宰相(ワジール)。ニザーム=アルムルクとは「国家の秩序」の意味の称号。ペルシア語を用いて『政治の書』(または『統治の書』)を著し、君主の統治理念を具体的に説き明かした。

セルジューク朝の名宰相
 イクター制では、その所有者の権利と義務を定め、2~3年でイクターを変更し、必要があれば中央から調査官を派遣する、とした。またスンナ派イスラーム教を復興させようとしてニザーミーヤ学院を創設して学問を奨励した。アラビア文学を代表する『ルバイヤート』の作者として知られる詩人であり、ジャラーリー暦を編纂したウマル=ハイヤームを保護したことでも知られ、ともにイラン=イスラーム文化を代表する人物である。
暗殺教団に暗殺される

 しかし晩年はマリク=シャーとの関係が悪化し、スルタンの後継問題から1092年に暗殺された。暗殺犯は、セルジューク朝の弾圧を受けていたシーア派系イスマーイール派の最も過激な集団であった暗殺教団であった。この後はセルジューク朝は次第に衰退していった。
引用元:ニザーム=アルムルク http://www.y-history.net/appendix/wh0502-009.html

ニザームルムルクまたはニザーム・アル=ムルク(نظام الملك، ابو علي الحسن الطوسي, Niẓām al-Mulk Abū ‘Alī al-Ḥasan al-Ṭūsī、1018年4月10日 – 1092年10月14日)は、セルジューク朝の政治家、学者。君主マリク・シャーを支えてセルジューク朝全盛期を現出したイラン人宰相である。
引用元:ニザームルムルク – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%AF

ニザーム・アルムルク
にざーむあるむるく
Nim al-Mulk
(1018―1092)
ペルシア人の政治家。ホラサーンのトゥース近くの町の地主の家に生まれる。初めガズナ朝のホラサーン総督に任え、次にセルジューク朝のチャグリー・ベクの下に転じ、アルプ・アルスラーン、マリク・シャーの2代のスルタンの宰相となった。両スルタンの実質上のアター・ベク(君主の子息の養育にあたった者の称号)の役割を務め、自ら私兵を擁して政治の実権を握った。ニザーミーヤ学院を開設して、国家宗教としてのスンニー派イスラムの擁護にあたり、イクター制、軍制の整備など、多くの改革を行った。
 彼の著した『スィヤーサト・ナーメ(政治の書)』は、君主に対して統治理念を説いたもので、ペルシア語散文学の傑作であり、史料としても重要である。彼は1092年、イスファハーンからバグダードへの旅の途中で、イスマーイール派の刺客によって暗殺されたが、その後、半世紀にわたって、その子孫も「~アルムルク」という名で、宰相などの要職についた。[清水宏祐]
引用元:ニザーム・アルムルク(ニザームアルムルク)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%AF-858052

マリク・シャー
まりくしゃー
Malik Shh
(1055―1092)
セルジューク朝第3代のスルタン(在位1072~92)。父アルプ・アルスラーン在世中に後継者に指名され、父の死後、17歳でスルタンに即位、叔父カーブルト・ベクの反乱を鎮圧して政権の基礎を確立した。遠征軍をカシュガル、アッラーン、シルバーンにまで送り、東方ではカラ・ハン朝、西方ではマルワーン朝、ビザンティン帝国から領土を奪取して、同朝最大の版図を実現した。宰相ニザーム・アルムルクの助けを得て軍制、イクターを整備し、イスファハーンをはじめとする諸都市にモスクや市壁を建設した。ウマル・アル・ハイヤーミーらの文人、学者を保護する一方、天文台をつくり、新しい太陽暦を導入した。彼の治世での最大の難問はイスマーイール派対策であったが、山城を陥落させて暗殺集団(イスマーイール派の一派ニザール派=アサシン派)を根絶させることはできなかった。ニザーム・アルムルクが暗殺された直後、バグダードで急死し、これを期にセルジューク朝の内紛が激化した。[清水宏祐]
引用元:マリク・シャーとは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC-137404

ニザーミーヤ学院
にざーみーやがくいん
Madrasaal-Nimya
セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルクによってつくられた法学・神学校。ファーティマ朝のイスマーイール派宣教員に対抗して、国家宗教としてのスンニー派の擁護と、ウラマー、官僚の養成を目的として、領内の主要都市に建設された。そのうち、バスラ、モスル、イスファハーン、アーモル、ネイシャーブール、マルブ、ヘラート、バルフなどのものが知られている。とくに1067年に開設されたバグダードの学院は有名で、シャーフィイー派法学とアシュアリー派神学とが講じられ、ガザーリーもこの教授の任にあった。教授の任命にはニザーム・アルムルク自らがあたり、彼の死後は、その子孫がその権限を独占していた。[清水宏祐]
引用元:ニザーミーヤ学院(ニザーミーヤがくいん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A4%E5%AD%A6%E9%99%A2-1192497