事柄と江戸幕府将軍 徳川家治「田沼意次が老中に」 徳川家宣「荻原重秀による財政改革」「正徳の治」

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徳川家治徳川家宣
荻原重秀による財政改革
正徳の治
田沼意次が老中に

徳川 家治(とくがわ いえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) – 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。
>そして父・家重の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると次第に幕政を老中に任命した田沼に任せ、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
引用元: 徳川家治 – Wikipedia.

田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。
>この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。
引用元: 田沼意次 – Wikipedia.

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 – 1712年)である。
甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。
>宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると即座に、悪評の高かった生類憐れみの令や酒税[1]を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房・新井白石らを登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去した。享年51(満50歳没)。跡を子の徳川家継が3歳で継ぎ、政治は引き続き新井白石らに依存した。
法名は文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺。
6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の治世を併せて正徳の治(正徳の政治)という。
引用元: 徳川家宣 – Wikipedia.

荻原重秀
没年:正徳3.9.26(1713.11.13)
生年:万治1(1658)
江戸前・中期の幕臣。通称は五左衛門,彦次郎。幕臣十助種重の次男。延宝2(1674)年勘定となり,翌年廩米150俵を給さる。天和3(1683)年勘定組頭に進み,100俵加増。貞享4(1687)年総代官の会計検査を命じられ,その年勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に昇進し,300石加増,廩米を改められて550石の地方知行取となる。元禄2(1689)年200石,8年1000石加増。翌9年には勘定頭に進み,250石を加増され,従五位下近江守に叙任。さらに11年500石,宝永2(1705)年700石,7年500石を加増され,計3700石の知行取となる。徳川綱吉時代の後半から徳川家宣時代にかけて幕府財政を主導したが,正徳2(1712)年新井白石の弾劾により失脚。貨幣改鋳や貿易政策など,彼の商品経済への積極的な対応は評価できるが,その反面商人との結びつきにより腐敗が生じたことは否定できない。
(深井雅海)
引用元: 荻原重秀とは – コトバンク.