朴泳孝、金玉均


次のうち、19世紀後半に
「朝鮮独立党」の
中心的存在として活躍した
政治家を全て選びなさい
朴正熙
朴泳孝(答)
金九
金玉均(答)
金炳始
44%

独立党
19世紀後半、朝鮮王朝で独立と日本にならった近代化を進めようとした金玉均らの改革派のこと。

外圧に悩む朝鮮王朝(李朝)で、国内改革を行い、独立を維持しようとした青年政治家、官僚のグループで、開化派ともいう。彼らは一足先に開国し、文明開化を掲げていた日本を模範として改革を進めようとして、清朝と結んでいる閔妃一族などの保守派の事大党と対立した。中心人物は、金玉均・朴泳孝など。1884年にはクーデター(甲申政変)を敢行したが、清朝と結んだ保守派によって反撃され、失敗した。日清戦争では日本に支援されて政権を握ったが、ロシアに支援された事大党に押され、次第に衰退した。
引用元:独立党 http://www.y-history.net/appendix/wh1303-132_1.html

ぼく‐えいこう〔‐エイカウ〕【朴泳孝】

[1861~1939]朝鮮、李朝末の政治家。金玉均らと独立党を形成。1884年甲申事変に失敗し、日本に亡命。94年、内務大臣。日韓併合後、侯爵・中枢院顧問官。パク=ヨンヒョ。
引用元:朴泳孝とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B4%E6%B3%B3%E5%AD%9D-20855

金 玉均(キム・オッキュン、김옥균、きん ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) – 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で朝鮮独立党の指導者。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、백온)、号は古愚(コウ、고우)。本貫は安東(新安東金氏)。朝鮮の近代化を目指し、日本・中国と同盟し3国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた[1]。
引用元:金玉均 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%8E%89%E5%9D%87

甲申政変
こうしんせいへん

1884年(甲申)朝鮮のソウルで、クーデターによって閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に国政を改革しようとして開化派が行った政変。1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が切迫してくると、支配層内部でも、実学の流れをくむ洪英植(こうえいしょく/ホンヨンシク)、金玉均(きんぎょくきん/キムオクキュン)、朴泳孝(ぼくえいこう/パクヨンヒョ)らを中心とする開化派は、明治維新をモデルに朝鮮の近代化を図ろうと、留学生の派遣、『漢城旬報』の発刊などに努める一方、高宗にも接近、啓蒙(けいもう)にも努力した。しかし当時清(しん)国と結んだ守旧派が政権を握り、改革を阻んでいた。84年清仏(しんふつ)戦争で清国が敗れたのを機会に、開化派は日本の援助を得て守旧派打倒のクーデターを行った。すなわち、12月4日、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊(びんえいよく/ミンヨンイク)らを殺傷し、ただちに王宮に入り高宗を掌握、クーデターは一時は成功した。開化派は新政府を樹立、6日には14か条からなる新政綱を発表した。内容は門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特権商人の廃止、軍制の改革など、上からのブルジョア改革の志向を反映していた。しかし6日清国軍が介入し、新政権は三日天下に終わった。洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は日本に亡命した。日本公使館は焼かれ、公使竹添進一郎は仁川(じんせん/インチョン)に逃れ、ふたたび守旧派政権が樹立された。この政変の評価は朝鮮近代史の論争点の一つで、北朝鮮では反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命と評価しているが、単なる支配層内の政権争奪戦という見解もある。[宮田節子]
引用元:甲申政変(こうしんせいへん)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89-261601

朴 正(パク・チョンヒ、朝鮮語: 박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日〈時憲暦9月30日[註釈 1]〉 – 1979年10月26日)は、韓国の軍人、政治家。
職業軍人だったが、1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)を務めた。彼の時代から約30年間にわたって『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現されて韓国は世界最貧国の層から脱したと評価される[2]。
引用元:朴正煕 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95

きんきゅう【金九 Kim Gu】

1876‐1949
朝鮮の独立運動家。号は白凡。黄海道出身。18歳で甲午農民戦争に参加。1896年,日本人による閔妃(びんひ)虐殺事件を憤り,日本人陸軍中尉を斬殺して投獄されたが,98年脱獄。〈日韓保護条約〉締結後黄海道安岳で教師となり新民会運動に参加。1911年黄海道一帯の人士に対する弾圧事件(安岳事件)で3年余り入獄。三・一独立運動勃発後上海に渡り大韓民国臨時政府(臨政)に参画,警務局長,内務総長を経て26年国務領となり臨政の最高責任者になった。
引用元:金九(きんきゅう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E4%B9%9D-54046

金炳始(きんへいし、1832年 – 1898年)は朝鮮王朝末期の文臣。本貫は安東金氏。
引用元:金炳始 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%82%B3%E5%A7%8B