さとうかなやまじょう佐東銀山城



かつて広島市にあった
毛利氏の城は◯◯◯◯城?
佐東銀山
さとうかなやま(答)
36%

佐東銀山城(さとうかなやまじょう)は、安芸国佐東郡(現在の広島市安佐南区)にあった日本の城(山城)である。

逸話[編集]
安芸武田氏滅亡の際、残党が再起するための資金として、武田山中の洞窟に先祖伝来の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという伝説が残っている。元々この山は金銀を産出したとされ、「銀山」の名もこれに由来するものだと言われている。奇しくも武田山の真北には、かの石見銀山が位置しており、また真南には、武田氏が甲斐より勧請した宇品・神田神社が位置している(当初は東区。戦中、軍用地として徴用され、現在地に移転)。
引用元:佐東銀山城 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9D%B1%E9%8A%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E

さとうかなやまじょう【佐東銀山城】

広島県広島市安佐南区(安芸国佐東郡)の武田山(標高411m)にあった中世の山城(やまじろ)。山頂から尾根づたいに40以上の曲輪(くるわ)を配し、広島市内の山城の中で最大規模の城である。1221年(承久3)の承久の変の恩賞として、甲斐武田氏は安芸国守護に任命され、武田山南麓に守護所を構えた。戦乱の気運が高まる鎌倉時代末期、武田信宗(たけだのぶむね)が領土防衛のために佐東銀山城を築いたとされる。戦国時代になると、武田氏の勢力は拡張するが、安芸一国の支配まではいたらず、大内氏に従っていた。武田元繁(たけだもとしげ)の代になると大内氏に反旗を翻すが、有田合戦で初陣の毛利元就(もうりもとなり)に敗れて戦死してしまう。元繁の子の光和(みつかず)は山陰の尼子氏と結んで大内氏に対抗するものの、1541年(天文10)に大内氏の命を受けた毛利元就に攻められ、佐東銀山城は落城、安芸武田氏は滅亡した。以後、佐東銀山城は毛利氏の支配下に置かれ、毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れるとこの城を去り、やがて廃城となった。現在、佐東銀山城への登山道口には広島経済大学と祇園北高校がある。JR可部線下祇園駅から徒歩30分。◇銀山城(かなやまじょう)ともいう。
引用元:佐東銀山城(さとうかなやまじょう)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E6%9D%B1%E9%8A%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E-179973