「大道寺政繁」北条家の家臣 真田幸村


北条家に仕えた戦国武将
真田幸村の初陣の相手とも
小田原攻めでは豊臣軍を道案内
河越城下を発展させる
大道寺政繁(答)
成田氏長
猪俣邦憲
安藤良整
53%


北条家に仕えた戦国武将
元々は上杉謙信の家臣
娘の甲斐姫は秀吉の側室
小田原攻め時の忍城城主
成田氏長(答)

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。父は大道寺重興[1]。 大道寺氏代々の通称である「孫九郎」を名乗る。通称は大道寺駿河守。

政繁は北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えた。諱(名の政繁)の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から1字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている。天正12年(1584年)には新たに坂戸宿を開き[2]、現在の坂戸市発展の礎となっている。父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられている。軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた。
天正10年(1582年)、甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を武田氏滅亡戦の余波のまま織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ、最前線を担当し徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げる。
上野松井田城の城代であった[3]政繁は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した。
引用元:大道寺政繁 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%94%BF%E7%B9%81