「上泉信綱」新陰流開祖


戦国時代に栄えた剣の流派で
新陰流と開祖といえば?
伝綱泉上重
原川信卜塚
上泉信綱(答)
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上泉 信綱(かみいずみ のぶつな、永正5年(1508年)? – 天正5年1月16日(1573年2月3日)?)または上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)は、上州出身の戦国時代の兵法家。生年は推測(後述)、没年は天正10年(1582年)など諸説あり。

諸国流浪と剣術指南[編集]
江戸時代の『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』などによると、箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟と共に諸国流浪の旅に出るという。同行の門弟について、『本朝武芸小伝』は神後伊豆守・疋田文五郎など、『柳生家文書』では疋田分五郎と鈴木意伯が従ったとされる[2]。
諸国流浪の年代は、『本朝武芸小伝』によると永禄6年(1563年)上洛[21]という。『甲陽軍鑑』には古河公方・足利義氏に招かれたと書かれるが、真偽は不明。『武功雑記』には、信綱は上洛の帰途に山本勘助に会い、同行していた弟子・疋田が勘助と対戦してこれを破ったとある。ただし疋田の動向・勘助の没年などからフィクションらしいとされる[9]。
「兵法由来覚」では、信綱一行は本国を出たのち伊勢神宮へ向かい、そこで柳生のことを聞き大和へ赴いたとする。年次の記載は無い[10]。一方『正伝新陰流』では、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下したとする。永禄6年のことという。[2]
永禄8年には柳生宗厳・胤栄に印可状を与え、永禄10年には目録を丸目蔵人佐に与えた[2]。「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けたとする。[10]
なお、確かな同時代史料である山科言継の日記『言継卿記』にある上洛期間は永禄12年1月15日 – 元亀2年7月21日までである。元亀2年7月21日に京を去り故郷へ向かったとある。
引用元:上泉信綱 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1

上泉信綱(かみいずみ のぶつな) (永正5年?~天正5年?/1508~1577)
戦国時代の上州の武将であり、新陰流の祖である剣豪としても有名。
戦国の最強の剣豪として名高く、塚原卜伝と並んで剣聖と呼ばれる。

信綱にはこんな逸話も残されている。

信綱一行が尾張のとある村に着いた時、賊が村の子供を人質に取って立て篭もっている現場に遭遇した。村人たちは子供を助けようとするものの、下手に動けば子供は興奮した賊に殺されかねず、手を出しかねていた。これを見た信綱は、居合わせた僧侶から袈裟を借り、自身の髪の毛を剃り、にぎりめしを手に持った僧の姿で賊の前に進み、「そなたも子供も腹がすいているだろう。どうかこのにぎりめしを食べてはくれぬか」と言い、にぎりめしを賊に向かって放り投げた。賊がにぎりめしに気を取られると、すかさず信綱は男に駆け寄りあっというまに取り押さえた。これを見ていた僧は感動し、貸した袈裟をそのまま信綱に贈ったと言う。

このエピソードは黒沢明監督の映画「七人の侍」のモデルになったと言われている。
引用元:上泉信綱とは (カミイズミノブツナとは) [単語記事] – ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1