武田勝頼、徳川家康、織田信長「長篠の戦い」


次のうち、1575年の
長篠の戦いに参加した
武将を1つ選びなさい
北条氏康
上杉謙信
武田信玄
今川義元
徳川家康(答)
武田勝頼(答)
伊達政宗
織田信長(答)
65%

長篠の戦い
ながしののたたかい

天正3 (1575) 年5月三河 (愛知県) 設楽原における武田勝頼と,織田信長,徳川家康の連合軍との戦い。勝頼は,天正2 (74) 年遠江 (静岡県) の高天神城を陥れ,その勢いに乗って翌年長篠を囲んだ。城主奥平定昌 (のち信昌) の要請により,信長と家康が出陣。極楽寺山に陣した信長は馬防柵を設け,3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させ,その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらした。
引用元:長篠の戦い(ながしののたたかい)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-107676

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。

開戦に至る経緯[編集]
甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に駿河今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦[注 4])したため、織田氏と武田氏は手切となった。
しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。
武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属[注 5])。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。
武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始[12]。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍を率いて三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至る(長篠の戦い)。
引用元:長篠の戦い – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84